大川端だより(265)


シチズンcitizen)を「市民」と翻訳したのは福沢諭吉だそうだが、シミンではなくイチミンと発音していたようだ。イギリスの市民革命の担い手だったシチズンは、文字通り市場での支配力を増していたブルジョア階級だったので、福沢は、日本でも、市場で生き生きと働き、自分の才覚でお金を稼ぎ出す人びと「市民(イチミン)」を「シチズン」の訳語として選んだのだろう。しかし、明治の日本社会で「市民」という言葉が一般的に使われることはなかった。


なぜなら、明治政府が当時ヨーロッパの後進国だったドイツをまね、帝国憲法教育勅語による「忠君愛国」思想で、国民を「臣民」化する道を選んだからだった。天皇の家来としての日本国民には「市民」というコンセプトは無用のものだったのだ。


また、第二次世界大戦後の日本の民主主義化においても、当時盛んだったマルクス主義運動、労働運動は、「市民」という言葉より「労働者」や「人民」を好んだ。というのは、市民はもともとブルジョアジー(所有者階級)の意味だから、階級闘争と革命を金科玉条のごとく考えていた左翼にとって「市民」という言葉は忌避すべきものだったからだ。ぼくらがベ平連をやっていたころ、よく学生や労働者から「プチブル(小市民)!」と言って批判されたことを懐かしく思い出す。


ところが、市場経済が進展し、都市的な消費生活のスタイルが日本全体に波及した80年代以降、少子高齢化や人口減によって税収が上がらなくなると、国も地方分権化を推進せざるをえなくなった。そのような状況下で、必然的に、市民活動・NPO/NGOなど、市民が積極的に政治や行政に物申すようになり、あらためて「市民」という言葉、「市民自治」というコンセプトが脚光を浴びるようになったのである。