大川端だより(264)


民人(「みんじん」or「たみびと」と読もう)という言葉はない。人民や民草という言葉はあるが、前者はドコソコ人民共和国を想起させるし、後者はあまりにもペンペン草のような感じがするので、使いたくない。前にも書いたような気がするが、最近「市民」という言葉にある種の違和を感じるようになっている。


『Volo(ウォロ)』12月号の「私の市民論」に、ひめゆり平和祈念資料館学芸課長の普天間朝佳(ふてんまちょうけい)さんが次のように書いておられる。「沖縄では、『市民』という言葉にそれほどなじみがないように思う。『市民』という言葉よりも『県民』という言葉のほうが?市民権?を得ている。それは、沖縄が対峙されてきた問題が、常に対政府、対国家という問題ばかりだったということを示している」。

 
つまり、沖縄の人たちは、「県民」という言葉により切実な実感を持っており、「市民」という言葉には「なじみがない」というより、アイデンティティを感じられないのだろう。で、ぼくらは自分たちのことを「市民」と本当に感じているのかなあ、と訝しく思っているのである。


例えば、天神橋筋商店街を歩く人々にアットランダムに「あなたは市民ですか、それとも庶民ですか?」と訊いてみると、おそらく多数の人が「庶民」とこたえるのではないかと思うのである。つまり、市民というのは、“進歩的文化人”(ふる〜)の使う言葉で、大阪市民という意味ではそのとおりなんやけど、それ以外の余分なイデオロギーをまぶされたカッコつきの「市民」なんかでは決してないよ、ということなのだと思う。


「市民ってなんかエラソー」とか、「自分らはカシコイ思っとんねん」と感じている“庶民派大阪人”はたくさんいると思うのだ。ただ、庶民という言葉も手垢がつき過ぎていて、庶民気取りのインテリ小金持ちなんていう気持ち悪い“人種”もいるにはいる。


そこで、フツーの人たちを表わす的確な言葉はないかとあれこれ物色していたのだが、「住民」ではそこに住んでいないとダメだし…、ということで、冒頭に書いた「民人」という言葉に行き着いたのである。「民」という人(たち)、「民」階層の人(たち)ということだから、意味的にはドンピシャなんだけど、「ミンジン」なんて「みじめなミジンコ」みたいで嫌や!と思う人も多いだろうなあ(笑)。