■ネットで出あったいい言葉

■ネットで出あったいい言葉

「このご時世、人間さまが大変なのに犬猫どころじゃないだろう、と思われる方もおられるかと思いますが、私はそうは思いません。弱いもの、小さいものに対するモラルはすべてのことに通じると思っています。」
http://saekirouge.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-cc91.html

猫を可愛がる殺し屋とか、自分ちの飼い犬が怪我でもしたら大騒ぎするのに、アフリカの難民キャンプで子どもが次々死んでいくニュースには冷淡な輩もたくさんいるとは思います。しかし、基本的に「弱いもの、小さいものに対するモラルはすべてのことに通じる」というコンセプトはかなり普遍的なのではないでしょうか。

大川端だより(481)


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┃┃■ 黒ビールでも飲みながら……(158) by thayama
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  ■思いつき「田中初音」論〜フツーの市民の無頼性


▼「田中初音」と聞いて、NHKドラマ「てっぱん」のおばあちゃんを思い出す人はかなりの朝ドラ通なのかもしれない。このばあちゃん役を演ずるのは、言わずと知れたあの緋牡丹博徒シリーズのお竜役で一世を風靡した日本映画の名女優の一人・富司純子である。


▼彼女の父親は、任侠映画の首領(ドン)と言われた映画プロデューサーの俊藤浩滋。夫は大河ドラマ源義経」で共演した歌舞伎役者の尾上菊五郎、長男に尾上菊之助、長女に芝居巧者として知られる寺島しのぶがいる。生まれは和歌山県御坊市、5歳で大阪に移住し、大阪市立本庄中学校、京都女子高校を卒業している。関西弁が上手なはずである。


▼彼女がどうようなワケがあって今回の老け役(当初67歳の役なので、昭和20年12月1日生まれの富司にとっては厳密には“老け”とは言えないかも…)を引き受けたのか、その経緯は知らないが、相当な覚悟が要ったはずだ。往年の美人女優、原節子が美しさの最盛期に引退したのとは全く別の生き方に興味を抱いた。


▼同番組のホームページによると、田中初音とは下記のような人物である。


▼「あかりの実祖母。大阪で下宿屋を営む。近所の人々からはどこか “いけず”※なばあちゃんと煙たがられているむきもあるが、本人は気にしていない。18年前に親子の縁を切った娘・千春の消息をたどろうと広島・尾道に来た際、実の孫・あかりと運命的な出会いを果たす。その折、実の娘・千春が既に亡くなっていることを知るが、孫・あかりには、本心とは裏腹な態度をとってしまい、絶縁を宣言する。しかし、ひょんなことから、大阪で初音が営む下宿屋にあかりが転がり込んだことをきっかけに、“いけず”な祖母と※“がんぼ”な孫との心の交流が生まれていく。最終的には、あかりの情熱に負け、千春の出奔以来、封印していた「お好み焼き屋」を、あかりと共に、開業するようになる」。
(※"いけず"は関西で意地悪の意味。ただし、笑って許せるような意地悪を指す。※“がんぼ”は広島弁で、わがままで人の言うことを聞かず、常に何かしたがる様を表す。がんぼたれ)」


▼ところが、このような“いけずなばあちゃん”という設定とは少し異なる風情を富司純子演じる田中初音は醸し出す。周りの人たちの理不尽や優柔不断に対して、小気味よく一喝するセルフ回しには、どことなく「無頼」の陰が感じられる。この陰は、沢木耕太郎が描いた実父の物語『無名』に出てくる「その肩の 無頼のかげや 懐手」という佳句のものと同質である。


▼この句の作者はもちろん沢木の父・二郎である。句意は、普通に考えると、彼が後ろから誰かの背中を見ており、その人物の懐手の様子に何らかの“無頼”の雰囲気があるのを感じている、というようなことであろう。しかし沢木は、父が遺した「懐手」が出てくる別の句「黒つむぎ 妻厭へども 懐手」を重ね、この句が自分(二郎)を詠んだことは明らかだから、「その肩の」の句の人物も実は父自身のことではないか……と推測する。そして次のように書く。


▼「父は無頼の人だったか。いや、無頼とは最も遠い人だった。博打とも、女出入りとも無縁の人だった。子供に手を上げたこともなく、ことによったら声を荒げたこともなかったかもしれない。一合の酒と、一冊の本があればよい人だった。しかし、もしかしたら、無頼とは父のような人のことを言うのではないか。放蕩もせず、悪事も犯さなかったが、父のような生き方こそ真の無頼と言うのではないか……」。


▼では、この「父のような生き方」とはどういうものなのだろうか。別のところで沢木は次のように述べている。「父には自分が何者かであることを人に示したいというところがまったくなかった。何者でもない自分を静かに受け入れ、その状態に満足していた」。


▼自己顕示に対する無欲こそが、フツーの市民の無頼性の根拠である。成功したいとか、名を成したいとか、功績を残したいなどは、結局全て自己顕示欲の為せる技だが、そういう要素が全くない人間というのはなかなか御しがたいものである。たとえば、政治や経済がその人物を利用したいと思っても、出世欲も金銭欲もないから、権力になびかない。


▼フツーの市民の中にあるこのような無頼性を、初音ばあちゃんもまた体現しているように思える。(ぼくの文章でよく使う「フツーの市民」という言い方は、実はぼくが普通の市民なんていないと思っているからだ。みんなそれぞれに独自の個性と個人史があり、「普通」という言葉に一般化できる人などいないのだが、市井に生きる“一般ピープル”を指すため、あえて「フツーの市民」と呼んでいる)


▼そして、富司純子という女優の無頼性は、若いころ女博徒を演じたことや、ヤクザ映画のプロデューサーという父の職業柄、夫・菊五郎の歌舞伎役者“河原乞食”としての本性、また彼女が結婚生活の中で経験して来たであろう数々の苦悩に起因するのかもしれない。仄聞するところ、夫の隠し子問題や金銭問題でも苦労したと伝えられているようだが、これらの要素が相まって、初音ばあちゃんの“無頼性”を醸し出しているのだろう。


▼おばあちゃんの下宿屋「田中荘」は木造建築で、黒光りする古い木の廊下の両側に4.5畳や6畳の部屋が並んでいる、高度成長以前にはどこにでもあったアパートである。廊下や隣の部屋の話し声が筒抜けで、下宿人は全員顔見知り。何かと首を突っ込みあう。他の朝ドラでは、沖縄出身の国仲涼子が主演し、高視聴率を稼いだ「ちゅらさん」の時も同じようなアパート「一風荘」が舞台になっていた。


▼このようなアパートに住む住人は、それぞれが個性的で、足の故障を抱えたマラソンランナーや売れない絵描き、父子家庭の親子などが住んでいる。みな“過去”のある人物たちだが、犯罪者やヤクザ者というわけではなく、それぞれの薄暗い過去を抱えているのである。


▼そのことに対して初音ばあちゃんは、なるべく干渉を避けようとする。ところが孫のあかりは若くて好奇心・同情心が旺盛なこともあって、とくに人の苦境には黙っておられず、なにかと世話を焼きたがる。そこでおばあちゃんの一喝が落ち、「自分の世話も満足にできんのに、人様のことに口を挟みな!」というようなことを述べる。


▼ところがこの初音ばあちゃんは、一見キツイことを言うが、根は人情家で、結局はあかりのフォローをしてくれることになる。人生の酸いも甘いも経験して、表面的にはいけずでクールに見えるが、時々見せる笑顔がやさしく清々しい。


▼この物語は、朝ドラの定石通り、基本的に若者(あかり)のビルドゥングスロマン(主人公の人格の形成・発展を中心とする小説)なのだが、おばあちゃん(初音)もまた、成長・変化していくところが見所である。あかりの「まず人を受け入れる」という基本的な態度・性格の影響を受け、娘・千春との絶縁以来閉ざしていた初音の心が徐々に開いていく。無謬の老賢人として一方的に若者を導くのではなく、お互いのコミュニケーションの中で、年配者もまた自分を開き、変わっていくのである。


▼市民活動的に言うと、キモは相互コミュニケーションによる社会と自己の変革であり、恊働による社会的な創造である。経験者、実力者、知識人、年配者だけからの一方通行では何も変えられないし、何かを創り出すことも難しいだろう。朝ドラ「てっぱん」を見ながら、そこに市民活動の極意(コミュニケーション)を重ねてみるのも一興であろう。

大川端だより(480)


白内障手術の記


2011年1月19日に左目の白内障手術を受けた。手術前に、何人かの経験者から術後経過を訊くと、「ものすごく見えやすくなった。早くしたほうがいい」という人と、「ほとんど以前と変わらない。あんまり期待しない方がいい」という人と二極分解の様相だった。医者からも、近眼が酷い人は効果がはかばかしくない場合もある、と聞いていたので、はたしてよく見えるようになるのだろうか……とちょっと心配だった。


手術当日は、準備段階で5分に1回、2種類の目薬を何回も点眼しなければならなかった。そのあと、前の人の手術がかなり長くかかり1時間ぐらいまたされたが、パンツ一丁で手術着に着替えさせられ、手術台へ上がった。


最近の医者や看護士は以前と比べると、格段に患者扱いが上手になり、親切にプロセスの説明をしてくれるので、安心できる。「これから部分麻酔をします」とか「目薬を入れますが、ちょっとシミるかもしれません」など、なるべく患者を安心させようとする心遣いが感じられる。


実際の手術に入ると、「目を動かさないでください」と言われて少し緊張したが、痛みや不快感はない。ただ、森の中で遠くにチェーンソーの音を聞くような、ウィーン、ウィーンという小さな音が聞こえる。電気メスで何かを切除しているのかな……などと考えていた。どれぐらいの時間が経ったのか分からないが、医者が「はい、終わりました」と宣言して、手術終了。後で看護士に手術にかかった時間を聞くと、「20分ぐらいでした」ということだった。


手術後、大きくて不格好な眼帯をされた。風邪予防のマスクもすると、顔がほとんど見えない状態だ。眼鏡をかけにくくて困る。しかし、眼帯は一晩だけで、翌日9時からの検査で取ってもらえるらしい。


次の日、ドクターが眼帯を取ってくれたときに一瞬、モノがかなりクリアに見えたような気がし、こんなに効果があるものか、と思っていると、視力検査をするという。それで、検査室まで歩くため眼鏡をかけた途端、手術した左目がものすごくぼやけて、以前よりかなり視力が落ちているように思えた。ぼくは左右を比べると左目がかなり悪く、視力は0.1以下だったと思うのだが、それよりずっと悪化しているようなのだ。まるで温泉に入って湯煙でモノがぼやけて見えるような感じである。


視力検査では、眼鏡を外したとたん、えらく術後の左目がクリアに見え、逆に近視がゆるいほうの右目がぼやけて見えるのだ。そこでやっと合点した。やはり手術した左目はかなり良くなっており、次週に手術する右目が近視のままだから、そういう逆転現象が起こるのだ。左目の視力検査の結果は、裸眼で0.6だったのでかなり視力は向上したのである。だから眼鏡を外すと、左右の視力がものすごく不均衡でフワフワした変な感じである。


そして、1週間後の26日に今度は右目の手術をした。実は、近視は右目の方がずっと良かったのでかなり期待をしていたのだが、終わってみるとあまり視力が回復しているようには思えなかった。医者は、「左目と同じぐらいの視力になるように眼内レンズを選んでいます」と言っていたが、左目のときのように周りの見え方がクリアではなく、ちょっと近視の度合いがマシになった程度の感じだった。その旨、医者に伝えると、「左と同じぐらいにはなっているはずですけどね……?」というだけで、こちらの見え方が実際どうなっているか医者には分からないから、何とも心許ない。


因に、「白内障」とはどういう病気か、簡単に説明すると、眼球内にある水晶体(レンズ)が混濁した状態のことである。そのため、かすんでモノが見えにくくなったり、明るいところでは極度にまぶしくなることもある。


そのため手術では、超音波を発信する装置を用いて、混濁した水晶体を取り除く。しかし、そのままでは視界が明るくはなるが、焦点が合わない高度遠視の状態になるので、焦点を回復させるため、眼内レンズを挿入する。眼内レンズはアクリル樹脂製で、眼球内で極めて安定した性質を保持すると言われている。しかし残念ながら現在、焦点を合わせる調整力のある眼内レンズがまだ開発されていないため、手術後、焦点を合わせるために眼鏡の助けが必要になる。ただ手術後、眼球内の状態が安定するのに3ヶ月程度かかるので、眼鏡のレンズを調整・選択するのはその後になる。つまり、本当に安定した視力を得るまでに少なくとも3ヶ月かかるのだ。


で、ぼくの今の見え方の状態は、眼鏡をかけずにテレビを見たり、外を散歩することはできるようになったが、小さな文字などは読みにくい。とくに商品説明文などの極小文字は全く読めなかったりする。つまり、手術結果は功罪相半ばする、というところである。しかしそれにしても、パソコン画面の文字が見えにくかったり、書物の活字が読みにくい、というのは不便なものである。

大川端だより(479)


明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。



ほろ酔ひのぬるま湯楽し寝正月


本当は、ホロ酔いでもぬるま湯でもなく、44℃の熱めの風呂に入っていますが、まあ俳句的リアリティとということで、新年の心境です。


あんまり必死こいて疲れてしまわないように、ぬるま湯をホロ酔いで楽しむように、のほほんと生きていきたいと思っています。


世の中はそれどころではなく、いろんな危機的な状況がじわじわと迫っているようですが、そんなことは度外視して、極めて「私的」にケツを巻くって暮らしていきます。

大川端だより(478)


今年最後の長広舌です。皆様よいお年をお迎えください。


「内なる『デモクラシー』を鍛え直す」


◆プロ編集者の「ウォロ」批評


ぼくらがつくっている市民活動総合情報誌「Volo(ウォロ)」をプロの編集者Yさんに批評してもらう機会を得た。Yさんは街ネタ情報誌(商業誌)の編集長として活躍して来られた方で、その経験から鋭い指摘をしていただいた。とくに、読者の読む気を誘引するメタ・メッセージの重要性についての指摘はとても参考になった。


「メタ・メッセージ」というのは、記事やスピーチなどの、伝えたい内容そのものではない。例えば、講演を始める前に、「後ろのほうの方も聞こえますか?」と訊く場合のように、聴衆の聴く気を誘引するメッセージのことである。また、恋人への別離の手紙のちょっと硬い文体や楷書文字なども、「この手紙の内容は別れ話だよ」と予告するメタ・メッセージだとも考えられる。


雑誌編集における読者に向けてのメタ・メッセージの重要性については、ウォロではあまり意識されていなかったように思う。だからとても有意義だったが、Yさんのウォロ批評のいちばん大きなポイントは、雑誌に明確な編集意図が感じられないこと、そしてその原因は編集長のリーダーシップがないからだ、ということだった。


しかし実は、ウォロには編集長という役職がない。編集者と編集委員長はいるのだが、慣例として前者は協会の事務局長がなり、後者は編集委員の互選で決めることになっている。そして、「編集者」の最大の役目は、編集の過程でもし筆禍事件など何か問題が生じた場合に責任をとることであり、「編集委員長」は20人ほどいる編集委員会の司会進行と意見の調整、校閲などをすることである。


Yさんの主張は、雑誌編集には強力なリーダーシップと覚悟が必要で、それが編集長という職務の立ち位置であり、だから編集に関する全責任は編集長が引き受けなければならない。そうでないと、雑誌の特色が明確に出ないし、それが出ないと凡庸になる、ということだったように思う。


このような編集論、編集長論は、言い古されてきたことである。文芸春秋菊池寛、暮らしの手帳の花森安治週刊朝日の扇谷正蔵といった名編集長たちの個性とリーダーシップが、彼らが編集する雑誌に反映されていたことは疑う余地がない。彼らはその編集力によって驚異的に発行部数を伸ばしたことでもよく知られている。


しかし、このような卓越した技量をもった生来的な編集長がどこにでもいるわけがない。それどころか、ある程度の編集的力量とリーダーシップを発揮できる編集長を育成するなり、他の雑誌から引き抜くとなると、それ相応の時間と経済的な余裕が必要なことは誰にでも解るだろう。


◆カリスマ的支配者としての英雄的リーダー


雑誌編集の現場だけではなく、組織論として強力なリーダーシップの重要性を説く論考はしばしば見かける。その典型が企業経営の分野であり、社長の強力な個性とリーダーシップがなければ、組織の成長・発展は望めないと言われている。また、プロ野球チームの監督も同じような文脈で語られることが多い。


これらの論議に共通するのは、ある意味での“英雄待望論”ではないかと思う。18年ぶりに阪神タイガースをリーグ優勝させた星野監督や、瀕死の日産自動車を再生させたゴーン社長があたかも英雄のようにマスメディアで取り上げられたことを見れば、頷けるのではないか。


しかしぼくは、このような“英雄”たちによる、マックス・ウェーバー言うところの“カリスマ的支配”は時代遅れだと思っている。なぜなら、英雄というのは、“その他大勢”とは圧倒的に能力差のある人たちのことで、時代をさかのぼるほど、フツーの人びとと英雄との能力較差・情報較差が大きかった。おそらく、信長や秀吉、シーザーやナポレオンなど、歴史上の英雄が有していた能力や情報は、一般の民衆とは比べ物にならなかったはずである。このように、圧倒的な能力較差、情報較差があるときに英雄は誕生する。


現在でも、例えば、イチローというプロ野球選手は、一般の野球愛好家とは隔絶した技量を持っている。そうでないと、大リーグにおいて10年間連続で200本安打を達成することなどできるはずがない。だから彼はまぎれもない“スポーツ英雄”なのである。


ただ、現代社会の行政や政治、市民セクターなど、社会性・多数性が所与の条件である分野においては、リーダーとその他の当事者、関係者の能力差、情報差はかつてほど隔絶してはおらず、英雄的リーダーによるカリスマ的支配が存続できる可能性は僅少であろうし、またそれを黙認することは他のメンバーの怠慢である、とも考えられる。


◆英雄的リーダーから傾聴型リーダーへ


現代のビジネス界において、大成功している企業の中には、従来とはまった全く異なるリーダーシップのあり方を追求しているところがある。ネット検索エンジン大手、アメリカのグーグル社などである。ジャーナリストの溝上憲文氏による「グーグル式『管理しない人事』がイノベーションを起こす」と題された記事(下記URL参照)を参考にしながら、以下の論考を進めてみたい。まず同記事のリードから読んでおこう。
http://www.president.co.jp/pre/backnumber/2010/20100705/15377/


「組織が巨大化してもベンチャースピリットを失わず、斬新なアイデアを発信し続けるグーグル。社員の自発的な創造力を促すためにあえて組織を管理しないその経営手法は知識創造型産業のモデルとなるのだろうか」。“あえて組織を管理しない経営手法”というのは一体どんなものなのだろう。


従来、ふつうの企業では、組織の階層化によって指揮命令系統を統一し、上司の指令を速やかに実行できる社員を育成した。また、このような人事管理によって組織維持を図るのが当たり前だった。


その理由は簡単に説明できると思う。高度成長以降、日本の場合、発展途上型の経済だったから、ふつう企業が作るモノは大量生産・大量消費型の商品だった。消費者はとにかくテレビやクルマが欲しかったものだから、それほどセンスのいいものや新奇性のあるものを求めなかった。誰もが大量生産品を所有すれば満足だったのである。だから企業の社員は、大量規格品の製造と販売を大過なく管理し、組織を運営し、上司の命令に忠実なほど“優秀”とされた。


欧米先進諸国でも事情は同じで、自国製品の輸出先の多くは世界中の途上国だったわけだから、とにかく大量に規格品を生産することが求められた。だから、それほど洗練された商品、凝ったモノは必要ではなかった。もちろん世界には裕福な資産家や余裕のある中流生活者がいて、高額で洗練された商品を欲しがったが、そういうエリート向け商品をつくる老舗企業が欧米には存在した。


ところが、時代が進み、世界的に経済が成熟化してくると、大量生産の規格品では満足できない分厚い消費者層が形成された。その層の人たちは、より高級で洗練された商品、他の人があまり持っていないモノを欲するようになる。


そうすると企業も当然、顧客のニーズに応えなければならないから、知識創造型の商品生産が必要となり、それができる社員を強く求めるようになる。ところが、そういう知識創造型の社員は、個人の頭脳や感性こそが売り物であり、命令する強力なリーダーがいては彼らの能力が発揮できない。なぜなら、往々にして強力なリーダーは、規制し、指示し、命令を下すからである。


知識創造型の社員が必要とする職場環境は、同僚の中に自分と同じような創造的な社員が数多(あまた)いて自由に議論し、お互いが“融合のマジック”を仕掛け合うような組織形態である。上司の命令に従うよりも、“尖がった”自分のセンスとアイデアを形にすることに専念するだろう。


そのような場合、リーダーの役割は、社員の話をよく聴き(傾聴)、社員のセンスjとアイデアの発露を鼓舞し、創造的な社員と社員を繋ぐコーディネーターの役割に徹することである。現代のビジネスにおいては、コーディネーション型リーダーシップを発揮できる“民主的”リーダーこそ必要とされている。


◆間接民主制の基盤としての直接民主性


ところが、“民主的”という言葉は現在、あまり人気のある言葉ではない。その原因は、上記のような先進的な企業の事例とは異なり、人びとが強力なリーダーシップを求めているからだろう。あまりにも今の行政や政財界が不甲斐ないので、みんなが“英雄”の出現を待ち望んでいるように見える。


その原因の一端は、おそらく先の選挙による政権交代の実現と、新しい政権政党である民主党の不甲斐なさという、人びとが政治に失望せざるを得ない現状にある。長年の自民党支配に対して、市民は間接民主制によって「NO!」を突き付け、そのことが実現して、社会はかなり変わるのではないか……と期待していた。ところが蓋を開けてみると、旧政権とほとんど変わらないどころか、さらに不甲斐ない政治しかできていない。そこで、社会全体のムードとして、何か眼の覚めるような改革ができる“英雄”を求めたくなるのであろう。


しかし、そんなことを期待してもどうにもならない。政治というのは、多数性を所与の条件としたコミュニケーション活動である。言葉を尽くして人びとの多様な価値観を融合し、止揚することである。政治に“英雄”によるカリスマ的支配を求めることは、デモクラシーの本意である「ぼくらの自治」を譲り渡すことを意味する。


ぼくは、間接民主主義が真っ当に機能するためには、その基盤に市民による直接民主主義的な気風と社会課題に対する広範な議論、そして「自治」への間断のない努力が必要だと考えている。ところが、日本社会ではそれらのことがかなり不充分であるように見える。


先の選挙における“勝利”とその後の“落胆”の原因は、間接民主制の基盤である「市民の直接民主性」の欠如であろう。このことを徹底的に検証し、自覚し、自らの内なる「民主性」を鍛え直す以外、次のステップを踏み出すことができないようにぼくには思える。


◆「民主性」を徹底的に極めること


話は初めに戻るが、プロの編集者Yさんのレクチャーを聴いたあと、会場から発言があった。ウォロの編集委員の一人が、おそらくYさんの“強力編集長必要論”に対して商業誌との編集体制の違いを説明したかったのだろう、「ウォロは民主的に…」と言った途端、Yさんが「民主的」という言葉に気色ばんで、何か言おうとされた。ウォロの編集委員は「ヤバイ!」と思ったのだろう、とっさに反応して、話題を「民主的」という言葉から逸らした。


ぼくはこの出来事を目撃して、現在の日本の状況を象徴的に示していると思った。多くの人たちが民主的とか民主性という言葉、また民主主義に対して、あんまり信用していない感じなのだ。結局みんな、現在の日本の民主主義に対して自信が持てないのだろう。その原因は、自分たち自身の当事者意識の希薄さなのだと思うが、その自覚はほとんど感じられない。


英雄主義、エリート主義の反対は民主主義である。民主主義とは、フツーの市民が自分たちの課題についての意志決定に関して主導権を握ることである。他人(政治家、官僚、企業家、上司など)任せにせず、自治的に社会(世界)を運営する中心となることである。これこそ、現在の社会(世界)、即ち、資本主義市場経済が地球全体を席巻する状況に対置すべきものであるはずだ。


だからぼくは、社会(世界)のすべての局面において、民主性(制)、民主的なスタイルを貫徹すべきだと考えている。外交・軍事といった公的な分野から、家族や友人関係など私的な分野まで、そこにかかわっている人たち自身が意思決定に参加する必要がある。


例えば軍事のような、徹底して指揮命令系統がトップダウン形式の組織でも、兵隊たちは上官の命令に唯々諾々と従うべきではない。他国に迷惑がかかるような悪しき命令に対しては、徹底的に議論して命令を翻意させるべきである。現在の米国による世界的な軍事支配は、被支配側にとって至って迷惑千万なのだが、それが米国の支配層にとっては大きなメリットである、という状況を変えなければならない。


また、営利企業の場合においても、社員にとって経営トップによる“独裁”は唾棄すべきである。たった一人もしくは数人の経営陣によって、社会正義よりも自社の営利を選択するような状況が出来(しゅったい)すれば、もちろん社員はそれを諌め、議論し、決定を翻意させなくてはならない。


余談になるかもしれないが、グーグルのトップ、エリック・シュミットの名言「全てを命令して欲しかったら、海兵隊に入れ。(If you want complete order, join the Marines.)」は象徴的である。もちろん彼は、トップの意向ばかり伺う社員に対して「自分で考えろ!」と警告したのだが、ぼくは海兵隊員自身も“自分で考える”必要があると思っている。


◆「当事者主権主義」としてのデモクラシー


これからの新しいデモクラシーは、その原義「民衆(demo)の統治(cracy)」から考えても、古代ギリシャのエリート民主主義ではなく、当事者主権主義であるべきだ。当事者とは「“そのこと”に直接関係している人」のことである。


例えば、「医療」については、医者や看護師はもちろん、臨床検査技師などの専門家、そして患者という最大の当事者が存在する。患者が医療の当事者であることは、患者がいない医療を考えることができないことを見ても明らかだろう。患者もまた医療の当事者であり、当事者は主権、即ち「医療の在り方を最終的に決める権利」を有している。


編集という人間の創造的な営為もまた、当事者主権であるべきだ。編集長だけではなく、副編集長からヒラのスタッフまで含めて当事者なのだから、みんなが「編集の在り方について最終的に決める権利」を有していなければならない。だから、一歩譲って編集長の強力なリーダーシップを認めるにしても、当事者全員が編集についての権利と責任を果たすべきである。


また、「異質の混在」という知的創造の源泉を考えても、編集長という一人の人間の独断専行などは否定すべきであって、決して奨励すべきものではない。もちろんYさんが言おうとしておられたのは編集長の「独断専行」などではなく、「強力なリーダーシップ」だということは理解しているが、強いリーダーシップの美名の下、独断専行に堕していくという例も多々ある。だから、十分に警戒しておく必要がある。


要は、一人ひとりが、いかに“そのこと”を当事者として捉え、能動的にかかわっていくかということである。ぼくらはそれを「民主的」「民主性(制)」という言葉で表したいと思う。そして、そのことを社会のあらゆる局面で徹底的に追求し、浸透させていくことが「市民」としての真っ当な在り方だと考える。


とりわけ市民活動のような社会的・政治的な活動は、多数性(社会性)を抜きにしては語り得ない分野である。多くの人たちとの協働によって市民活動は成り立っているから、スポーツや文学の世界のような卓越した個人性、“英雄性”を期待するほうがおかしい。そんなことをするヒマがあれば、自らの内なる「デモクラシー」を鍛え直し、人びとの「民主性」に依拠した方法論・組織論を構築することに専念すべきである。