大川端だより(481)


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┃┃■ 黒ビールでも飲みながら……(158) by thayama
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  ■思いつき「田中初音」論〜フツーの市民の無頼性


▼「田中初音」と聞いて、NHKドラマ「てっぱん」のおばあちゃんを思い出す人はかなりの朝ドラ通なのかもしれない。このばあちゃん役を演ずるのは、言わずと知れたあの緋牡丹博徒シリーズのお竜役で一世を風靡した日本映画の名女優の一人・富司純子である。


▼彼女の父親は、任侠映画の首領(ドン)と言われた映画プロデューサーの俊藤浩滋。夫は大河ドラマ源義経」で共演した歌舞伎役者の尾上菊五郎、長男に尾上菊之助、長女に芝居巧者として知られる寺島しのぶがいる。生まれは和歌山県御坊市、5歳で大阪に移住し、大阪市立本庄中学校、京都女子高校を卒業している。関西弁が上手なはずである。


▼彼女がどうようなワケがあって今回の老け役(当初67歳の役なので、昭和20年12月1日生まれの富司にとっては厳密には“老け”とは言えないかも…)を引き受けたのか、その経緯は知らないが、相当な覚悟が要ったはずだ。往年の美人女優、原節子が美しさの最盛期に引退したのとは全く別の生き方に興味を抱いた。


▼同番組のホームページによると、田中初音とは下記のような人物である。


▼「あかりの実祖母。大阪で下宿屋を営む。近所の人々からはどこか “いけず”※なばあちゃんと煙たがられているむきもあるが、本人は気にしていない。18年前に親子の縁を切った娘・千春の消息をたどろうと広島・尾道に来た際、実の孫・あかりと運命的な出会いを果たす。その折、実の娘・千春が既に亡くなっていることを知るが、孫・あかりには、本心とは裏腹な態度をとってしまい、絶縁を宣言する。しかし、ひょんなことから、大阪で初音が営む下宿屋にあかりが転がり込んだことをきっかけに、“いけず”な祖母と※“がんぼ”な孫との心の交流が生まれていく。最終的には、あかりの情熱に負け、千春の出奔以来、封印していた「お好み焼き屋」を、あかりと共に、開業するようになる」。
(※"いけず"は関西で意地悪の意味。ただし、笑って許せるような意地悪を指す。※“がんぼ”は広島弁で、わがままで人の言うことを聞かず、常に何かしたがる様を表す。がんぼたれ)」


▼ところが、このような“いけずなばあちゃん”という設定とは少し異なる風情を富司純子演じる田中初音は醸し出す。周りの人たちの理不尽や優柔不断に対して、小気味よく一喝するセルフ回しには、どことなく「無頼」の陰が感じられる。この陰は、沢木耕太郎が描いた実父の物語『無名』に出てくる「その肩の 無頼のかげや 懐手」という佳句のものと同質である。


▼この句の作者はもちろん沢木の父・二郎である。句意は、普通に考えると、彼が後ろから誰かの背中を見ており、その人物の懐手の様子に何らかの“無頼”の雰囲気があるのを感じている、というようなことであろう。しかし沢木は、父が遺した「懐手」が出てくる別の句「黒つむぎ 妻厭へども 懐手」を重ね、この句が自分(二郎)を詠んだことは明らかだから、「その肩の」の句の人物も実は父自身のことではないか……と推測する。そして次のように書く。


▼「父は無頼の人だったか。いや、無頼とは最も遠い人だった。博打とも、女出入りとも無縁の人だった。子供に手を上げたこともなく、ことによったら声を荒げたこともなかったかもしれない。一合の酒と、一冊の本があればよい人だった。しかし、もしかしたら、無頼とは父のような人のことを言うのではないか。放蕩もせず、悪事も犯さなかったが、父のような生き方こそ真の無頼と言うのではないか……」。


▼では、この「父のような生き方」とはどういうものなのだろうか。別のところで沢木は次のように述べている。「父には自分が何者かであることを人に示したいというところがまったくなかった。何者でもない自分を静かに受け入れ、その状態に満足していた」。


▼自己顕示に対する無欲こそが、フツーの市民の無頼性の根拠である。成功したいとか、名を成したいとか、功績を残したいなどは、結局全て自己顕示欲の為せる技だが、そういう要素が全くない人間というのはなかなか御しがたいものである。たとえば、政治や経済がその人物を利用したいと思っても、出世欲も金銭欲もないから、権力になびかない。


▼フツーの市民の中にあるこのような無頼性を、初音ばあちゃんもまた体現しているように思える。(ぼくの文章でよく使う「フツーの市民」という言い方は、実はぼくが普通の市民なんていないと思っているからだ。みんなそれぞれに独自の個性と個人史があり、「普通」という言葉に一般化できる人などいないのだが、市井に生きる“一般ピープル”を指すため、あえて「フツーの市民」と呼んでいる)


▼そして、富司純子という女優の無頼性は、若いころ女博徒を演じたことや、ヤクザ映画のプロデューサーという父の職業柄、夫・菊五郎の歌舞伎役者“河原乞食”としての本性、また彼女が結婚生活の中で経験して来たであろう数々の苦悩に起因するのかもしれない。仄聞するところ、夫の隠し子問題や金銭問題でも苦労したと伝えられているようだが、これらの要素が相まって、初音ばあちゃんの“無頼性”を醸し出しているのだろう。


▼おばあちゃんの下宿屋「田中荘」は木造建築で、黒光りする古い木の廊下の両側に4.5畳や6畳の部屋が並んでいる、高度成長以前にはどこにでもあったアパートである。廊下や隣の部屋の話し声が筒抜けで、下宿人は全員顔見知り。何かと首を突っ込みあう。他の朝ドラでは、沖縄出身の国仲涼子が主演し、高視聴率を稼いだ「ちゅらさん」の時も同じようなアパート「一風荘」が舞台になっていた。


▼このようなアパートに住む住人は、それぞれが個性的で、足の故障を抱えたマラソンランナーや売れない絵描き、父子家庭の親子などが住んでいる。みな“過去”のある人物たちだが、犯罪者やヤクザ者というわけではなく、それぞれの薄暗い過去を抱えているのである。


▼そのことに対して初音ばあちゃんは、なるべく干渉を避けようとする。ところが孫のあかりは若くて好奇心・同情心が旺盛なこともあって、とくに人の苦境には黙っておられず、なにかと世話を焼きたがる。そこでおばあちゃんの一喝が落ち、「自分の世話も満足にできんのに、人様のことに口を挟みな!」というようなことを述べる。


▼ところがこの初音ばあちゃんは、一見キツイことを言うが、根は人情家で、結局はあかりのフォローをしてくれることになる。人生の酸いも甘いも経験して、表面的にはいけずでクールに見えるが、時々見せる笑顔がやさしく清々しい。


▼この物語は、朝ドラの定石通り、基本的に若者(あかり)のビルドゥングスロマン(主人公の人格の形成・発展を中心とする小説)なのだが、おばあちゃん(初音)もまた、成長・変化していくところが見所である。あかりの「まず人を受け入れる」という基本的な態度・性格の影響を受け、娘・千春との絶縁以来閉ざしていた初音の心が徐々に開いていく。無謬の老賢人として一方的に若者を導くのではなく、お互いのコミュニケーションの中で、年配者もまた自分を開き、変わっていくのである。


▼市民活動的に言うと、キモは相互コミュニケーションによる社会と自己の変革であり、恊働による社会的な創造である。経験者、実力者、知識人、年配者だけからの一方通行では何も変えられないし、何かを創り出すことも難しいだろう。朝ドラ「てっぱん」を見ながら、そこに市民活動の極意(コミュニケーション)を重ねてみるのも一興であろう。