大川端だより(477)


下関辺りではケーキもないクリスマスを迎えている猫ちゃんが三匹もいるのに、大阪のフクちゃんちは、こんな素敵なトラッキーと美味しいケーキがありました。どや!


下関のかわいそうな3匹の猫ちゃんについては、下記のURLをクリックしてください。

http://meyameya.at.webry.info/201012/article_12.html

大川端だより(476)


南に面して和室が二つありますが、その窓が大きく、午前中は陽光がいっぱい入ってフクちゃんにはちょうど心地の良い陽溜まりができます。

岸和田のFUKU様、気持ちいいですよ。…とうちのフクちゃんが申しております。でも確かに彼女はちょっと(だいぶ)肥え気味ですね。


写真で見てもらったら分かると思いますが、
言葉工房の事務所(室)もなんとか狭いながら、オフィスチックな感じになってきました。二台のパソコン、プリンター、シュレッダー、ファックスと電話、それに本棚二つ。よく入ったと思います。


それから本棚のある食事室兼応接間は、前の事務所から持ってきた木製の大テーブルを中央に置き、8人程度なら会議もできる仕様になりました。みなさん、何かの折にどうぞお立ち寄りください。待ってま〜す。

大川端だより(475)


11月28日(日)に大阪市北区同心から北区国分寺へ引っ越しして、なんとかやっと人の住める、仕事ができる状態になりました。


引っ越してきた当初は、本や家具など半分以上処分したつもりでしたが、それでも荷物の詰まった段ボール箱が50ぐらいはあったと思います。


まず本棚や各種整理棚を設置し、箱を開けて本や事務用品、洋服や生活雑貨を所定の位置へ納める。この作業を二人の敏腕の引っ越し経験者に手伝ってもらいながら四人でやっと済ませました。


それと同時に、市役所への住所変更や健康保険証の書き換え、警察への免許証の変更届など、いろんな事務手続きがあります。また、ガスと電気の開栓や電話とインターネットの開通作業があります。


いやあ、引っ越しというのは本当に大変です。これからはできるだけ物を増やさず、シンプルな生活を心がけるつもりです。でも、住居の前に大通りを隔てて結構大きな書店があるのがネックですね(笑)。

大川端だより(474)


来月初旬、某大学でボランティア・コーディネーター養成講座の講師を務め、90分ほど話をすることになっている。テーマは広報。ところがどうも、市民活動団体の広報というと、チラシや広報誌など紙媒体の制作というイメージが強いようだ。また、「市民団体の広報=自分たちの活動の宣伝&情報発信」と考えている人たちが多い。


しかし現在、企業では、広報部門の名称を「広報室」から「コーポレートコミュニケーション部」などに替えるところも増えている。つまり、広報を一方的な宣伝や情報発信ではなく、社会的なコミュニケーションだと考える企業が増加してきているということである。


もともと「広報」は、英語ではPR(Public Relationsパブリック・リレーションズ)で、直訳すれば「公衆関係」とか「公的(社会的)関係」の意味である。リレーションズと複数形になっているのは、いろんな「関係」が多数あるからだ。このあたりは日本語の「広報」、つまり「広く報せる」という概念とは最初からかなり異なっている。


そこで、ボランティアコーディネーションとコーポレートコミュニケーションの関係だが、「コーディネーション=コミュニケーション」であるところが重要である。つまり、コーディネート(調整)するにはコミュニケート(意志疎通)が不可欠だということだ。


考えてみれば当たり前のことだが、つい忘れがちになる。人間は多数性(社会性)の中で生きているから、何をするにしてもいちばん大切なのは他者とのコミュニケーションである。まず前提として、良好なコミュニケーションが成立しない限り、物事はうまく進展しない。これはビジネスでも市民活動でも、学校でも家庭でも、みんな同じことである。


では、コミュニケーションの要諦とは何だろう。それは、次のような認識を各自が持っているかどうかにかかっているのではないだろうか。

1.世の中にはいろんな人がいる。「異質の混在」が社会の常態
2.みんな独自の意見、感性、人生、教育歴、職歴、趣味等々を持っている
3.上記の総合としての「個性」を、誰も否定される筋合いはない
4.だから、まず意見を出し合い、話し合うことが必要
5.相手の言葉に「耳を澄ます」ことからすべてが始まる
6.「コミュニケーションは受け手が完成させる」という前提
7.「節度ある話し合い」による変革(問題解決)と創造の追求


これらのことが、心の底から認識できていて、コーディネーションができれば、絶対にうまくいくはずだが、これがなかなか難しい。なぜなら、1〜3の人間の多数性についての基礎認識は一見簡単そうに見えて、実際にはさまざまな人たちとの出会体験が必要だからである。


例えば、中東の戦火の中で両親を失った子どもたちやレイプ被害者、病気の被介護高齢者などの悲痛を、ぼくらが皮膚感覚で“解ること”は至難であるが、テレビや新聞のニュースで知るのと、実際に体験者に会って会話するのとでは大差があるはずだ。