大川端だより(474)


来月初旬、某大学でボランティア・コーディネーター養成講座の講師を務め、90分ほど話をすることになっている。テーマは広報。ところがどうも、市民活動団体の広報というと、チラシや広報誌など紙媒体の制作というイメージが強いようだ。また、「市民団体の広報=自分たちの活動の宣伝&情報発信」と考えている人たちが多い。


しかし現在、企業では、広報部門の名称を「広報室」から「コーポレートコミュニケーション部」などに替えるところも増えている。つまり、広報を一方的な宣伝や情報発信ではなく、社会的なコミュニケーションだと考える企業が増加してきているということである。


もともと「広報」は、英語ではPR(Public Relationsパブリック・リレーションズ)で、直訳すれば「公衆関係」とか「公的(社会的)関係」の意味である。リレーションズと複数形になっているのは、いろんな「関係」が多数あるからだ。このあたりは日本語の「広報」、つまり「広く報せる」という概念とは最初からかなり異なっている。


そこで、ボランティアコーディネーションとコーポレートコミュニケーションの関係だが、「コーディネーション=コミュニケーション」であるところが重要である。つまり、コーディネート(調整)するにはコミュニケート(意志疎通)が不可欠だということだ。


考えてみれば当たり前のことだが、つい忘れがちになる。人間は多数性(社会性)の中で生きているから、何をするにしてもいちばん大切なのは他者とのコミュニケーションである。まず前提として、良好なコミュニケーションが成立しない限り、物事はうまく進展しない。これはビジネスでも市民活動でも、学校でも家庭でも、みんな同じことである。


では、コミュニケーションの要諦とは何だろう。それは、次のような認識を各自が持っているかどうかにかかっているのではないだろうか。

1.世の中にはいろんな人がいる。「異質の混在」が社会の常態
2.みんな独自の意見、感性、人生、教育歴、職歴、趣味等々を持っている
3.上記の総合としての「個性」を、誰も否定される筋合いはない
4.だから、まず意見を出し合い、話し合うことが必要
5.相手の言葉に「耳を澄ます」ことからすべてが始まる
6.「コミュニケーションは受け手が完成させる」という前提
7.「節度ある話し合い」による変革(問題解決)と創造の追求


これらのことが、心の底から認識できていて、コーディネーションができれば、絶対にうまくいくはずだが、これがなかなか難しい。なぜなら、1〜3の人間の多数性についての基礎認識は一見簡単そうに見えて、実際にはさまざまな人たちとの出会体験が必要だからである。


例えば、中東の戦火の中で両親を失った子どもたちやレイプ被害者、病気の被介護高齢者などの悲痛を、ぼくらが皮膚感覚で“解ること”は至難であるが、テレビや新聞のニュースで知るのと、実際に体験者に会って会話するのとでは大差があるはずだ。