大川端だより(469)


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┃┃■ 黒ビールでも飲みながら……(157) by thayama
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   ■「討議学」「討議論」の提唱


▼市民活動の中でよく聞かれるのが、「無駄な議論を止めて行動を!」とか、「話し合いより実行を!」といった“スローガン”です。でも、これって変じゃないですか。行動や実行をするには、その裏付けとして、根底に真剣な議論(討議、論議、評議、話し合い)があって、意志決定が行われていなければならないはずです。


▼つまり、上記スローガンにおける「議論」や「話し合い」は、内実がなく無効な議論(話し合い)だったということです。有効な議論もせずに行動(実行)に移るのは、いろんな意味で非常に危険ですから、ます真の意味における「議論」をしなければなりません。


▼上の文で「議論」という言葉の前に「真の意味における」という形容詞句を付けたのには理由があります。それは今、この日本社会のあちらこちらで行われているさまざまな“議論”は、議論になっていない、と思っているからです。


▼国会や、テレビの政治討論番組や、市民活動の会議や、居酒屋談議を含めて、議論をしているようで、実は議論でも何でもなく、お互いの主張を大声で述べ合っているだけ、ということがほとんどだと思わざるを得ません。


▼では、本当の議論(討議)とはどんなものなのでしょうか?


▼まず、相手の言うことに耳を澄ます、という部分が不可欠でしょう。次に、自分の主張と相手の主張を比較対照し、お互いが納得できる部分を取り、同意できないところはその原因を徹底的に分析する必要があります。そのとき、自分の主張の瑕疵が見えてきたら、潔くそれを認め、意見(主張)を修正することが重要でしょう。そして最後には、お互いの意見をブレンドし、それをまとめて、結論(企画案、意志決定、行動計画等々)を導き出します。


▼このような真剣な討議(議論)があってはじめて、行動(実行)に移ることができるのだと思うのです。だから、「議論より行動を!」という一見正論に見えるスローガンは、実は本末転倒なのではないでしょうか。真っ当な討議がなされていないからこそ出てくる思考でしょう。


▼では、そうすればいいのでしょう?


▼それは、討議参加者が心の深奥から「議論」の意味を理解し、他の参加者とともに話し合いによる変革を望んでいることだと考えます。市民活動とは畢竟、社会状況をよりマシなものにしていくための市民による変革への営為ですから、議論(討議、評議、話し合い)によるコミュニケーションが不可欠です。


▼議論によるコミュニケーションの有効な手段として今、ファシリテーションが脚光を浴びています。しかしぼくは、ファシリの危険性も感じています。それは、ファシリテーターという専門家が、会議なり話し合いを推進(リード)していくため、参加者が議論の本質を理解せずに、会議に埋没してしまう危険性を危惧するからです。


▼やはり根本的には、参加者個々人が議論というものの本質を理解していなければなりません。そのためにはファシリテーションという技術も有効でしょうが、学問や思想としての「討議学」ないしは「討議論」の確立が急務ではないかと考えています。