大川端だより(470)


■「討議学」「討議論」って?(続編)


ぼくは以前、ボラ協(大阪ボランティア協会)で「市民プロデューサー養成講座(通称=CAP{Civil Action Producer}」をやったとき、よく「言葉のボクシング」というフレーズを使っていました。CAPでは、少人数単位で活動企画を練り上げるため、そのときに活発な議論をして欲しかったのでそういうフレーズを使ったのですが、ボクシングというのは勝敗を決める闘いなので、最近は少し考え方が変わってきました。


言論による闘いをルール化した典型は欧米発の「ディベート」だと思うのですが、あれは言論による勝敗が目的で、つまり相手を言葉によっていかに打ち負かすか、ということが眼目なのです。外交やビジネスの現場で、いかに相手を言論でノックアウトするかが重要だと思っている考え方から、当然出てくる思考プロセスだと思います。


しかし、そのような思考法では、市民活動や議会においては「あまり上手く行かないなあ」と感じている人たちが増えているような気がします。市民活動や議会は勝ち負けがねらいではなく、社会をより良くしていくための変革こそが目的ですから、言葉のボクシングではなく、言葉による真のコミュニケーション(相互理解)とクリエイション(創造)が必須なのです。


この基本的な認識が、市民活動の現場で共有されているのでしょうか。それを指摘すると、「そんなの当然じゃん」といった反応が返ってくるのかも知れませんが、「本当なのかな…」という疑念がぼくの頭の中をゆっくりと散歩し始めます。


例えば、会議の場面を想像してみてください。「文化の日」の自治体との協働イベント企画を考える際に、グループのリーダーが「日の丸の旗は、帝国主義時代の植民地支配を想起させるから絶対ダメだよなあ」などと不用意に断定的な発言をすると、「日の丸って素朴で美しいからいいと思うのに…」と“単純”な感想を持っている人たちの発言を保留させることになるかもしれません。


これは、自由活発なコミュニケーションという創造的な会議の要諦を封殺する行為だと思うのですが、類似の発言を市民活動においてよく耳にするのはぼくだけではないでしょう。また、誰かの素朴な、また“無知”による発言を笑殺するような行為も言語道断だと思います。素朴な発言の中に真実が隠されているというのはよくあることです。


だから、まず相手の言うことを真摯に聞く、という態度が必須で、それがないと、「じっくりと語り合う」という討議の神髄が水で薄めたようになり、会議の内容を薄弱なものにしてしまうのです。


ぼくは今、「じっくりと語り合う」というコンセプトを中心にした活動を立ち上げたいと思い、みんなに呼び掛けています。活動の中に「じっくりと語り合う」仕組みを仕掛けておきたいのです。つまり、システムとして、どうしても「じっくりと語り合う」ことにならざるを得ないような活動形態を模索したいと考えています。どうぞ、ご期待ください!