大川端だより(444)


「行き当たりばったり」のススメ


●非難のターゲットは“無計画性”


これまでの自分の人生は、取り立てて就きたい職業があったわけでもなく、大金持ちになりたいとか有名人になりたい、小説家になって大傑作を書きたい、といった大それた望みがあったわけでもなく、至って平凡に、次々と出来する出来事に行き当たりばったりの対処をすることによって形成されてきた。そのため、たとえ「お前なんか行き当たりばったり人生やないか!」と、誰かから非難がましく言われても、声高に抗議する気持ちにもなれない。


「行き当たりばったり」の反対語は、おそらく「計画性」とか「計画的」という言葉で、それがないこと、つまり「無計画」なことが非難の対象になるのであろう。そこでまず、「行き当たりばったり」の根本的な意味をいろいろな国語辞典で調べると、下記のような定義が掲げられている。


「計画・目的もなく、なりゆき任せだ」(角川国語辞典)

「成り行きに任せること。運命に任せること」(新潮国語辞典)

「どうするかという方針を初めからは立てず、その時の様子や成り行きに任せ、適当にすること」(新明解国語辞典三省堂〕)

「先のことを深く考えず、成り行きにまかせて物事を行うさま」(広辞苑

「計画を立てずに、なりゆきに任せて行うこと」(明鏡国語辞典
「一貫した計画や予定もなく、その場その場のなりゆきにまかせること」(スーパー大辞林


これらの定義に共通するのは、「なりゆきにまかせる」という部分である。「なりゆき」というのは「物事の推移」ということだから、それに任せる、ということについて良し悪しの価値判断はないのだろうと思われる。


ところが、ある前提を付加すると、途端にマイナスの価値観を伴う言葉となる。すなわち、「計画・目的もなく」とか「先のことを深く考えず」とか「一貫した計画や予定もなく」といった前提である。


つまり、「計画性もなく、物事の推移に将来や選択、決定等々を任せる」ということが非難の対象になるのである。無計画性こそが敵であり、闘いの対象なのである。


●「無計画批判イデオロギー」の起源


では、なぜそういうことになるのか、ここで「計画」というものの歴史を振り返ってみよう。ブリタニカ国際大百科事典には次のように書かれている。


「計画の出現を歴史的にみると、企業経営では20世紀の初めに科学的管理法が計画の必要性を強調したため、にわかに着目されはじめた。その後計画の対象は生産や販売から長期の経営方針にまで及んできた。中央政府に関しては、19世紀末頃から政府に対して種々な機能を遂行するように期待されはじめたことが計画の必要性を高めたといえる」


つまり、「計画」というものが人間社会において重要視されだしてからまだ百年と少ししか経っていないのである。それにも関わらず、みんなが当然のように“無計画性”を論難するようになったのである。しかしそれ以前の人間社会は、どこでも「行き当たりばったり」的な様相を呈していたのである。


例えば日本の江戸時代、庶民はあまり計画など立てなかったに違いない。身分制社会の中で、諸個人は親の職業を継ぐのが当たり前で、農民の子は農民に、大工の子は大工に、武士の子は武士になるものだったから、先の計画など立てても仕方がなかった。まして女は、親が決めた誰かの嫁になるか、裕福な家庭の“女中”にでもなるか、貧乏な親に売られて“女郎”になるなどしか生計の手立てがなかったから、計画的な人生など最初から論外であったのだろう。


しかしだからといって、江戸時代の人びとが不幸だったかというと、決してそんなことはない。現代の市民社会に生きるぼくらはどうしても、江戸期の庶民より自分たちの暮らしや人生のほうがはるかに“上等”だと考えているが、本当にそのようなことが言えるのだろうか。


実は、江戸時代に来日した多くの外国人の書き残したものを見ると、当時の日本社会における人びとの暮らしがとても明るくアッケラカンとして幸せなものだった、という印象が強く残るのである。渡辺京二氏による、江戸及び明治初期に来日した外国人の証言を分析した労作『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー 定価・本体1900円税別)からいくつか下記に引用してみよう。


「日本人はいろいろな欠点をもっているとはいえ、幸福で気さくな、不満のない国民であるように思われる」(ラザフォード・オールコック著『大君の都』)

「人びとは幸福で満足そう」(『ペリー提督 日本遠征日記』)

「どうみても彼らは健康で幸福な民族であり、外国人などいなくてもよいのかもしれない」(プロシャのオイレンブルク使節団の遠征報告書)

「日本人は何と自然を熱愛しているのだろう。何と自然の美を利用することをよく知っているのだろう。安楽で静かで幸福な生活、大それた欲望を持たず、競争もせず、穏やかな感覚と慎ましやかな物質的満足感に満ちた生活を何と上手に組み立てることを知っているのだろう」(エミール・ギメ著『1876ボンジュールかながわ フランス人の見た明治初期の神奈川』)


●手工業的成熟社会「江戸文明」に学ぶ


とりわけ4つ目のギメの著作からの引用文は、明治9(1876)年の神奈川における日本人の印象だから、本格的な近代的工業社会が始まる前、まだ江戸文明が色濃く残っている時代のものである。ここに書かれているのは、ある意味で現代人が考える理想的な暮しの描写だと見紛うのは自分だけだろうか? 自然と調和し、その美を愛で、少欲で知足安分し、他人と競争するのではなく、物質的には慎ましいモノで満足している。何とエコロジカルで穏やかな、安心できる暮しなのだろう。


ただ、もしあの時代に近代工業化せず、富国強兵政策もとらず、江戸文明社会を続けていたとしたら、虎視眈々と日本の植民地化を目論んでいた欧米列強にむしゃぶりつくされていたこともまた容易に想像できることである。


近代化とは欧米化であり、工業化・産業化の謂いである。人間の暮しを工業と産業によって覆いつくす時代の始まりである。複雑化する社会の中で、国家や企業などの巨大組織は「計画」化される必要があった。なぜなら、「行き当たりばったり」では競争相手に勝てないからである。


そして、その価値観が個人にも敷衍され、人生を計画的に見通すことが奨励されるようになったのであろう。そこには、個人の暮らしや人生も競争である、との価値観が感じられる。競争によって他人よりも有利な職業に就き、出世して経済的、世間的、地位的にも成功を収め、社会的な名声を博する。そして個人個人がそのように努力することによって、全体的な産業社会、企業社会もますます栄え、国家としてさらに競争力がつき強大国になっていく。


しかし、このようなスキーム(図式)が成立しえたのは、日本が全体として成長経済を続けておれた90年代の中ごろまでのことだろう。現在のように経済と社会が成熟し、大幅な経済的な成長が期待できなくなったとき、ぼくら市民は今までとは異なる生き方のスタイルを模索しなければならない。それが、計画的・競争的ではない「行き当たりばったり」のライフスタイルなのだ。


思えば江戸時代後半というのは、手工業社会が成熟化を成し遂げた、正に「江戸文明」と呼ぶべき完成された社会だったと考えられる。その中で人びとは、ギメが観察したように、「大それた欲望を持たず、競争もせず、穏やかな感覚と慎ましやかな物質的満足感に満ちた生活」をうまく組み立てていたのだろう。


●両立がむずかしい「進歩」と「調和」


現在、経済的発展の著しい中国で上海万博が開催されている。テーマは「より良い都市、より良い生活」という中国の現実に即した至って抽象的なものであるが、40年前の大阪万博では「人類の進歩と調和」という壮大なテーマが掲げられていた。しかしながら人類は、1970年から2010年の今年まで、圧倒的に“進歩”のほうにハンドルを切り、アリバイ的に“調和”への舵取りをほんの時おり行ってきたに過ぎなかったように思われる。


60年代後半から70年代にかけて、地球の有限性に対する認識が深まり、シューマッハーの『スモール・イズ・ビューティフル』などの書物でも地球環境との調和が論じられ、エコロジー思想が広まったにもかかわらず、圧倒的なイデオロギーは「進歩」主義であった。


それは今も続いており、進歩&成長神話の継続、つまりさらなる経済の拡大を、中国を初めとするBRICs(ブラジル=Brazil、ロシア=Russia、インドIndia、中国=China)やアフリカに求めている。これらの国々・地域の人びとの経済的発展への望みをないがしろにすべきだとはもちろん思はないが、これまでと同じ経済発展の原理である“地下資源など自然の搾取”を貫徹するなら、地球環境と人類の「調和」がさらに乱されることは想像に難くない。地下資源など自然の搾取を経済発展の原理とするかぎり「進歩」と「調和」は両立しない。


また「進歩」には必ず「変化」がついて回るが、人間社会と自然のハーモニーが保たれているとき、変化はほとんど必要ないか、もしくは非常にゆるやかな変化となるだろう。まさに江戸時代というのは「ゆるやかな変化の時代」だったし、人びとはそのことに満足していたようだ。


そして、進歩や変化と不可分なのが「計画」である。人間は進歩や変化を求めて何事かを計画する。とくに企業などの「組織」は、いつも他の組織と競争状態にあるから、間断なき計画を余儀なくされる。しかしそのことに個人が巻き込まれると悲劇が生ずることが多い。いつも計画していなければならないことに対する強迫観念、長時間労働、暮らしにおける余裕の無さ、等々である。


●物事・状況を深く味合うこと


では、これらのことに対する処方箋はあるのだろうか? ある。その答えが「行き当たりばったり」のススメである。しかし実は、こんなススメをしなくても、フツーの人びとの95%程度(何の根拠もないが…)はほとんど計画なんかせず、「行き当たりばったり」に生きているように思う。たまに、弁護士や医者など、経済的・世間的に有利な職業に就こうとして、本人の意志を親が度外視して将来計画を強制するという場合も見られるが、その計画通りに行かないことも多いようである。


ぼくの周辺には計画的人生をおくっている人物など一人もいない。みんなその時どきのさまざまな状況に「行き当たりばったり」に、しかし賢明に対処して人生を楽しみ、まあまあうまくやっているように見える。


もちろん時には、思わぬ病気になったり、失業したり、離婚したり、等々の“不幸”に見舞われることもあるが、それが人生というものであり、何の挫折の経験もなく順風満帆の人生の航海者などほとんどいないし、いたとしても人間としての深みに欠ける、おもしろくない存在となる可能性も大きい。


だから、無理に計画的な人生など送る必要はない。もちろん計画的な人生を送ろうとしている人たちを敵視しているつもりはなく、ただ計画は計画であり、それが実現できるかどうかは確証の埒外なので、実現できなかったときに、あまりにも落胆して自殺など考えて欲しくない。もし計画が途中で頓挫しても、「まあこれも人生」と諦め(居直り?)、次のステップに踏み出してみよう、とアドバイスしたいだけなのである。


「計画」のネライは、その結果としての成功もしくは勝利であり変化である。また、目的の成就である。では、「行き当たりばったり」の意義もしくは目的とは何なのだろう。意義や目的などとくになくても、ただ「生きているだけで丸儲け」だとする明石屋さんま的なチョー楽天的生き(行き)方もあろう。しかし凡人は、何ほどかの人生の意義を感じたいものでもあるので、以下にそれを提起しておこう。


「行き当たりばったり」の意義もしくは目的とは、物事、状況を深く味わうことだ、と言説しておこう。例えば、行き当たりばったりの旅をして偶然出あった町や人や景色を深く味わうこと。映画や小説や絵画など、優れた作家による作品を深く味わうこと。自分の身に降りかかる好ましくない状況や、思いがけない幸運を充分に味わうこと。換言すれば、人生における喜怒哀楽を深く味わい尽くすことである。


誤解を恐れずに言えば、計画的人生の目的がソーゾー(想像・創造)であるのに対して、行き当たりばったり人生の目的はカンショー(鑑賞・観賞・勧賞・感賞・観照)である。ソーゾーとは頭の中で思い描き、新しいものを創り出すことである。それに対してカンショーとは、すでに存在する素晴らしいもの、美しいもの、楽しいものを深く味わい、賞賛するとともに、悲哀や不幸も深く感得し、物事の本質を見極めることである。


今の社会で重視されるのは圧倒的にソーゾーであり、カンショーの重要性はほとんど省みられない。しかし本当は、全くの無から有は生じようがないように、ソーゾーの土台として、広く深いカンショーという素地が必要なのである。現在、その素地が本当に薄っぺらな、ツギハギだらけのものになっている。海に沈む夕日の美しさに本当に感じ入った経験(カンショー)があってこそ、素晴らしい夕焼けの絵画(ソーゾー)を創作することが出来るのである。ソーゾーの前にもっともっとカンショーを! そのためにも、「行き当たりばったり」にさまざまな体験をし、物事を深くカンショーする必要があるのである。