大川端だより(419)


これまでの人生で、一番初めに好きになった俳優はアラカンこと嵐寛寿郎である。彼の鞍馬天狗の映画を観たのは京都の園部にいるときだったので、四〜五歳のころだったと思う。田舎の小さな映画館で観たアラカンはとてもかっこよかった。正月映画か何かだったと思うのだが、映画館は満員で、誰かに手を繋いでもらっていたその手が離れ、人の波に埋もれそうになり、とても怖い思いをしたことを覚えている。映画が娯楽の王様だった。


次に好きになったのはアラン・ラッドである。もちろん「シェーン」(日本公開1953年10月20日)である。おそらく観たのは大阪に出てきてからだと思うので、小学校低学年のころだったのだろう。シェーンがロッキー山脈を背景に馬に乗って少しずつこちらに向かってくる。画面中央に水を飲む鹿がおり、それを狙う四、五歳の少年がいる。向かってくるシェーンを見て、少年は父親のところへ飛んでいく。「だれかきたよ」。シェーンはテンガロンハットに鹿革服の上下。肩と胸には雨がうまく滴るようにビラビラが付いている。アラン・ラッド゙は正真正銘のアメリカの美男だけど、トロイ・ドナヒューのように屈託のない顔つきではなく、どこかに憂いを秘めている。背はそんなに高くないし、スタローンのようなマッチョタイプではない。しかし、拳銃の腕前は超一流で、殴り合いの喧嘩もかなり強い。少年の家に逗留することになり、ハードワークの末に牧地を得た開拓者たちに立ち退きを迫る悪漢どもを相手に父親の仲間たちとともに闘う。殺し屋役のジャック・パランスが不気味だけどかっこよかった。そして、最後の決闘のシーンでは、拳銃の発射音の大きさにも度肝を抜かれた。少年の母親との秘めた恋もあり、本当にかっこいい映画だった。


そして、思春期になってファンになったのはもちろん裕ちゃん(石原裕次郎)だった。「嵐を呼ぶ男」(57年公開)で一世を風靡した裕次郎は、次々とヒット作を飛ばし、毎月のようにスクリーンに出ずっぱりだった。あの長い脚と、それまでの映画スターとは全く趣の異なる美青年ぶりで、戦後まだ十五年も経っていない発展途上、経済成長期の日本を象徴するような勢いがあった。育ちの良さや湘南地方のハイカラな(死語?)匂いが、泥臭い大阪の空気とはかなり違っていた。悪に立ち向かう時の怒りの表情、その眉間のシワがなんともイカしていた。鏡を見て再三まねをしたものだが、いくらやっても裕ちゃんのようなシワにはならなかった。


その後、二十歳代になってよく観たのはもちろん東映ヤクザ映画である。鶴田浩二高倉健は、反体制的な気分が強かったぼくらにとって最大のアンチヒーローだった。敵対する理不尽なヤクザの親分を、我慢に我慢を重ねた末にタタっ切るカタルシスに酔ったものである。よく通った京都の京一会館では、学生たちが画面に金子信雄(悪いほうの親分役)が出てきて悪の限りをつくすと「ナンセンス!」と叫び、鶴田浩二がそいつを血祭りにあげると、「異議ナシ!」と合唱した。東映ヤクザ映画の名脇役として、網走番外地シリーズなどで、昔何十人切りとかの斬殺で名を売った老ヤクザ役でよく出ていたのがアラカンだった。颯爽とした鞍馬天狗役とはまた違う、凄みのある、枯れたかっこよさがあったなあ。