大川端だより(417)


『遠い太鼓』は、村上春樹が1980年代の後半にヨーロッパで3年間暮らした時の記録である。この間に彼は長編2作(『ノルウェーの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』)と短編集(『TVピープル』)を書いている。またほかに、何冊か翻訳もしている。3年間、創作に没頭した至福の時間であったにちがいない。『遠い太鼓』は、旅行記というより、地中海地方のサマーハウスやフラットを1ヶ月とかの単位で住み継いで行き、そのときの場所や人や小動物のことについて考察しているエッセイ集である。


ローマ、アテネと滞在し、次に住んだのがエーゲ海に浮かぶ、イドラ島やミコノス島ほど観光地化していないスペッツェスという人口3千人ほど(夏の観光シーズンには倍になる)の島だった。そこに棲む猫の話が面白く、日本の都会で、ノラ猫にエサをやって嫌猫派の人たちに疎まれているぼくらから見ると、とても羨ましい人・ネコ関係が成立しているように思える。


その島にはノラ猫がたくさんいるが、人間はそのことを当たり前のこととして振る舞い、猫の集まる空き地などに新聞紙を敷いて残飯を置いてやる。また、タベルナなどで外食をするときも、足下によって来る猫に肉や魚の分け前を落としてやる。日本人は自分のうちで飼っている猫は猫可愛がりするが、「ギルシャ人はそうではない」という。


ギリシャ人は特殊な猫を別にすれば、あまり猫をペットとしては可愛がらない。僕の見たかぎりでは、べつにいじめはしないけれど、そのかわりとくに可愛がりもしない。彼らは猫たちをただ単にそこに存在している、そこに生きているものとして見なしているように僕には思える。鳥や草や花や蜂と同じように、猫たちもまた『世界』を形成するひとつの存在なのだ。彼らの『世界』はそういう風にかなり鷹揚に成立しているように僕には感じられるし、ギリシャの田舎に猫が多い本当の理由はそういう彼らの世界観によるものではなかろうかとも思う。」


そうなのだ。日本の都会にはますます“鷹揚さ”が欠けてきているように思える。ノラ猫だって自分と同じ生き物仲間なのだから、すこしぐらい庭に糞をされても、「臭いけど、これも生きてる証拠やさかい」と、鷹揚にその存在を肯定する気にはなれないものなのだろうか…。でもおそらく、日本でも瀬戸内海の小さな島に行けば、たくさんのノラ猫たちがいて、漁師さんたちにおこぼれをもらったり、子どもたちの遊び相手をしているのだろう。だから、これは日本人とギリシャ人の民族性の違いというより、都会と田舎の生き物に対する許容量の違いなのではないだろうか。


翻って、「言葉工房」のハウスキャット「ふく」のことを考えると、小さいときから家ネコとして飼われ、自然の中でほかの猫たちや人間と自由に交流する機会はないが、ぼくら人間をまるで「連れ」のように思い、お腹が減ったら、「ニャン」と催促しさえすれば、十分すぎるエサを与えられる境遇にまあまあ満足している様子である。あのお腹の膨れ具合が、それを証明しているように思えるのだ(笑)。