大川端だより(269)


12月8日(土)は、フィールドワーク市民塾で大阪城公園の陸軍砲兵工廠跡を歩く。参加者はスタッフを含めて30数名。中には新潟県長岡市からわざわざこの市民塾に参加するために駆けつけた人も。その方は、全国的に有名な長岡の花火について研究しておられ、打ち上げに使う大筒がどうやら大阪砲兵工廠で作られた製品のようなので、今回講師をしていただいた武庫川女子大学の三宅宏司先生(『大阪砲兵工廠の研究』の著者)の話を聞きに来られたのである。


最初は、ピース大阪(大阪国際平和センター)にて、職員の方のセンターについての説明を受けたあと、三宅先生から約1時間のレクチャーを受ける。そのあと、各自ピース大阪の見学と昼食を済ませて、センター入口前に集合。三宅先生を先頭にフィールドワークへと向かう。


ピース大阪のパンフレットによると、砲兵工廠は、「1870(明治3)年、大阪城三の丸米倉跡に官営の軍需工場『造兵司』が設置された。『大阪造兵司』『大砲製造所』『砲兵第二方面砲兵支廠』とその名称を何度も変えたが、1879(明治12)年に『大阪砲兵工廠』と改称し、以後、一般にこの名称で呼ばれるようになった。一貫して陸軍直営の兵器工場として、大砲、砲弾など、重量兵器を製造した。戦争末期には、海運器材、航空機部品等の比率が増加し、そのほか、ロケット砲、風船爆弾、毒ガス弾の弾体、特攻兵器、簡易兵器なども生産した」とある。終戦時の従業員数は、分工場などを合わせると6万7千人。東洋一とも言われた大軍需工場だった。


今回の市民塾では、今まで知らなかったことがたくさんあった。例えば、日本で最初の労働組合がおそらく大阪砲兵工廠で結成されたこと、大阪は商都と呼ばれることが多いが、むしろ工都、軍都の面が大きかったこと、戦争が激しくないときは水道管などの民生品も作っていたこと、また現在でもあるいくつもの大企業が戦時中は軍需物資の生産・供給をしていたこと等々である。


当時は全てが戦争体制に組み込まれていたため、市民や企業の軍事的加担を責めるのは酷だと思うが、気になるのは、企業の社史などにも戦中の軍需物資生産について触れていないことである。また市民も、「戦争被害者としての自分」というアイデンティティはもっていても、アジア太平洋の人びとに対して加害者だったことを無意識的なのかどうか分からないが、忘れてしまっているように見えることだ。


明治3年から75年間も大阪の産業の中で強大な地位を占めていた砲兵工廠が、いまやほとんどの市民の頭の中から消えてしまっている。そして、大阪は江戸時代から商人の町だった、と事実の一面だけを強調する。おそらくみんな、戦後日本が平和国家として、国際社会の中で生きてきたと思っているので、“忌まわしい”過去は速く忘れてしまいたいのだろう。しかし、事実は消せないし、大阪が軍都だったという歴史を歪曲してしまってはいけないと思う。