大川端だより(443)


ヘンリー・D・ソローの『森の生活〜ウォールデン〜』は、60年代にアメリカの若者たちがよく読んでいた本である。当時はコミューンが流行っており、ソローのウォールデンの森での自然と調和した生活が彼(彼女)らにはアピールしたのだろう。


ぼくもこれまで何回か読み通そうとしたのだが、独特の修辞、欧米文化に例をとった比喩などが多くて読みにくく、10ページぐらいまで進んで挫折していた。ところが今回、書棚にあった新訳(真崎義博氏訳)の宝島社文庫版が目に入り再度トライすることにした。


辛抱強く100ページぐらいまで読み進むと、この本がなぜそんなに40年前の欧米の若者たちにアピールしたのか分かってきた。がんがん経済成長が続き、高度工業社会が完成する中で、近代という時代に関する根底的な批判が鋭い警句を通じて展開されているのである。例えば、下記のような箴言の数々である。


「文明人はその生活を制度化し、種の保存・完成のために個人の生活の大部分をそこへ埋没させ…云々」とか、


「ある階級のぜいたくは、他の階級の貧困によってバランスがとられているのだ」とか、


「人間は自分たちの道具の道具になってしまった」とか、


「ピラミッドについていえば、ナイル河で溺れさせてその死体を犬にでもやってしまったほうがよほど賢いし男らしくもあるつまらない野心家の墓をつくるために、それほど多くの人間が自分の人生を使い尽くすことがどんなにひどいことかという事実以外に、驚くようなことは何もない」等々である。


最後の引用はちょっと文章としてわかりにくいが、要は、何人かの王・ファラオ(野心家)の墓(ピラミッド)をつくるために、多くのフツーの人びとが自分の人生を犠牲にした、ということ事実以外に、ピラミッドを見て感嘆するようなことは何もないんだよ、ということを言っているのだ。


つまり、色んな遺跡を見てナントカ文明なんて言っているけど、それらはみんな人びとの暮らしの犠牲の上に成り立っていたもので、その事実をきちんと把握しておく必要がある、ということだろう。


この考え方は、昭和初期に来日して桂離宮を持ち上げたドイツの建築家ブルーノ・タウトに対する坂口安吾の批判と近似している。


『森の生活〜ウォールデン』は、昨今の世界的経済情勢のさなかに読むと、まさに本質的な資本主義経済批判が展開されていることが分かる。