大川端だより(435)


「今からおよそ五十年前、昭和二十九年に中央公論社より発行された『猫』という小さな本を、このたび少しばかりアレンジして作りなおしてみました」という文庫本。井伏鱒二谷崎潤一郎など十一人の作家による猫についてのアンソロジーである。


この本を読んでいると、大正から昭和の戦後にかけての時代と今の猫事情の大きな違いが分かる。当時は、多階層の住居用建物がほとんどなかったので、たいがいの家猫は平屋もしくは二階建ての家屋で飼われていた。つまり、現在のマンション飼いの猫たちとは違い、自由に家の外に出て、気ままにほかの猫との交流を持てた。その結果、多くの雌猫が仔猫を身ごもり、人間たちはなんとかそれに対処しようと苦心惨憺した。時には弱くて育ちにくそうな仔猫を間引いたりもして、なんとか人と猫との関係を、どちらかというと“猫本位”で形作っていたように思える。猫のお産に立会い、出産を文字通り“手伝う”作家たちの頑張りは微笑ましい。


そう、昔の猫たちはやたらと仔を産んだ。だから人間は、その仔猫たちの貰い手を探すのに苦労をした。だけど、それは社会的な問題などではなく、あくまでもその一家とまわりの人たちと猫の問題であった。自由に外を徘徊できる猫たちは、時にはしばらく家に帰ってこず、一週間とか十日で帰ってきてしばらくするとお腹が大きくなり、台所の暗がりなどで出産を迎えることになる。それが当たり前で、家の子どもたちはそれを見て、生物の自然な営みを知り、小さな生き物への愛情を育んだ。


翻って、現代の猫事情を見ると、都会ではマンション住まいの猫が増え、生涯を通じて外へは出してもらえない猫が多くなった。そして、サカリの時季の鳴き声を含めた本能的な悶えを人間は迷惑がり、不妊・去勢手術を施し、人間の勝手な都合で猫たちの本来あるべき性本能を抑え込む。うちのフクちゃんも同じである。可愛い娘猫なのに、不妊手術を施され、外には出してもらえないから、ほかの猫との接触は皆無であるし、妊娠とも子育とも無縁である。これはもちろん、猫本位で猫のことを考えるのではなく、人間本位に猫を扱っているからである。スマンなフクちゃん(涙)。


だから、猫と人間との関係は、いま飼っているその猫一代かぎりのことである。フクという猫とぼくらは関係があるが、どちらかがいなくなると、その関係は途切れてしまう。昔のように、例えばタマという猫とその家族が一代かぎりではなく、その仔猫、孫猫の代まで続き、それぞれの猫たちの交友関係にまで、人猫関係は広がっていった。個別の猫との一代限りの関係ではなく、ある意味で猫社会と人間の社会との共生関係があった。


時どきぼくは思う。中之島猫対策協議会のボランティアの人たちの努力には頭が下がりはするし、野良猫を作らないという、社会的課題に対する作戦は充分理解しているが、このまま猫たちの不妊・去勢手術をどんどん続けていくと、犬と同じように、ブリーダー(人間)だけが猫の殺生与奪の権を握り、ほかの家畜と同じように、猫自身の意思でのリプロダクションが皆無になる時代がすぐそこまでやってきているのではないかと危惧する。


現代と五十年以上前の時代とは社会環境が全然違うので、一概に良し悪しは言えないが、独立自尊の猫たちにとっては、人間の関与が限られていた野良猫ワールドが無くなることには無量の感慨を禁じえないのではないかと推察する。おそらく、野良猫ワールド消滅のあとには、ライオンやサイ、クジラやマグロまで含めた、野生社会が人間の支配の手に無理やり委ねられることになるだろう。もはや世界に“野生”は無い。それにしてもフクの寝顔、君には野生への憧憬はないのか……。