大川端だより(431)


3月4日発行したメルマガ「市民プロデューサー通信」に下記の記事を書きました。


■「自分史」の社会・文化・市民運動としての可能性


▼現在、“自分史ブーム”とでも呼べるほど、己の過去を振り返って文章を物する人たちが増えているという。「自分史」というキーワードでグーグル検索をかけると、なんと5,120,000件ものサイトが引っかかる。そのなかには、自費出版を手がける大手企業や編集を請け負う会社や個人の宣伝サイトも多い。また、北九州市は「自分史文学賞」なるものを設け、文学作品としての自分史に注目している。しかしどうも、「自分史」という歴史的・文学的ジャンルがあるのは、日本独特の現象のようなのである。


▼もちろん、どこの世界でも、伝記、自伝・自叙伝など、ある人物の個人史を叙述する分野はあるし、社会学文化人類学の中で、ライフ・ヒストリーやライフ・ストーリーと呼ばれる、特定の個人についての歴史的バックグランドを詳述する学問的手法は存在する。しかし、それらと現在の日本社会における「自分史」とは重なる部分もあるが、やはり大分違うジャンルなのではないかと思うのだ。


▼因みに、英語で「self history」とか「personal history」等の語彙で検索をかけると、出てくるのはほぼ学問的な手法やいわゆる履歴書(とくに後者は)という意味である。もちろん、biography(伝記・一代記)やauto-biography(自伝・自叙伝)、という言葉はあるが、どちらかというと、それは有名人や成功者の伝記で、多くのフツー人、つまり一般市民がそれを書き残すとは思えないし、そういうジャンル、市場があるとも考えられない。


▼ところが、日本社会におけるいわゆる「自分史」というのは、まずフツーの日本の市民が“自分”の過去について“自分”で書く、という特徴がある。また、書いたものを書籍の形にして自費出版する。部数はほとんど100部から500部、多くて千部というところである。配布先は家族や親戚、ごく親しい友人や元職場の同僚といった“親密圏”のなかの人たちである。これが一つのジャンル(分野)を形成しているし、それほど経済規模は大きくないが、確実に自分史を扱う編集・出版市場(マーケット)があることである。


▼ところが、「自分史」という言葉が日本社会に出現するのはそれほど古いことではない。1975(昭和50)年に歴史学者色川大吉氏が中央公論社から『ある昭和史――自分史の試み』という本を出したのが自分史という言葉の嚆矢とされている。近代日本民衆史の研究者で、1925年生まれの色川は、楽しかるべき青春時代を戦争に翻弄され、満20歳で敗戦をむかえる。それから約30年後、50歳を目前にして、若き日の自分を大きな歴史のなかで振り返るために同書を著す。


▼戦時中まだ19歳だった色川は、敗戦前年の1944年秋に茨城県土浦の海軍航空隊に入隊し、その後、三重県の特攻基地に配属される。色川少尉にはほぼ同年代の部下30人がいたが、そのうちの12人が特攻に駆り出されるという精神的に過酷な体験をする。戦中派の人たちがよく口にする心情に、「なぜ、自分は生き残り、彼らは死んだのか」というのがあるが、戦中派にとっては、戦争という重い体験を書き残しておかなければならない、という責務感もあり、同書の出版がきっかけで「自分史」という言葉とジャンルが徐々に日本社会に定着していくことになる。


▼しかし、それ以前に、「ふだん記(ぎ)」運動という、「自分史」の原型のような活動があり、現在でも全国的に活発な実践がなされていることはあまり知られていない。この運動は、1968年に八王子市の橋本義夫(1902年〜1985年)の提唱によって誕生したものである。色川は、2001年10月〜2002年12月に八王子市中央図書館で行われた生誕百年記念の「橋本義夫の生涯と自分史の源流展」における展示への寄稿文で次のように書いている。


▼「…(前略)…私が北村透谷を研究し、三多摩自由民権運動の史料発掘にのめりこんでいると、橋本さんがこの方面でも先に手をつけていることを知った。私が民衆史の研究の重要性を提示したとき、すでに彼はその一部を実践していた。自分史についても同様である。私が昭和40年代のおわり、さまざまな自分史を基礎にすえた昭和史を書こうと苦闘していたとき、橋本さんは『ふだん記』運動のなかで、たくさんの庶民に自分の生きてきた記録を書かせていた。『ふだん記新書』の名で出されていたが、それは立派な自分史であり、感動的なものが多かった。ただ、『自分史』という言葉を使っていなかっただけだ」。


▼「ふだん記」運動というのは、大正デモクラシーの洗礼を受けた橋本が、フツーの市民が自分の体験や暮らしに根ざした記録を書くことによって、人間性を高めていこうとした運動である。自費出版などを手がける(株)清水工房のホームページによると、橋本は、まず文章を書くことを人々に勧め、上手に書こうとするのではなく、「(前略)…人生の報告書を一冊残すこと。美文名文などより、自分の生きてきた事実をありのままに記録すること」と、ふだんの姿を記録することの大切さを説いたという。まさに「ふだん記」運動こそ、自分史の先駆けと言えよう。


▼しかし、これらの例に限らず、日本には古くから「徒然草」等の日記文学の伝統があり、近代になってからも「綴り方運動」など、義務教育段階の生徒にも“自分史”を書かせる活動があったし、現在でもあるようだ。だけどこれらの伝統は、アナログ時代のもので、ネット時代を迎えてデジタルライター(市民ライター)として自分史を書き、ウェブ上のブログやメールマガジンといったソーシャル・メディアに公開する無数の人たちが存在する状況について詳しく分析・解説したものは少ないようだ。古い庄屋の蔵から研究者が古文書を渉猟し庶民史を構成していく時代から、ネット上でフツーの市民が無数の自分史を創出し、それを検索することによって「新しい市民史」を構成していく時代へ!の転換。


▼そこでぼくは今度、新しいブログ(http://blog-jibunshi.seesaa.net/?1265270084)を開設して、団塊世代ビートルズ世代を中心読者として想定した自分史ジャンルについての学びと創造の場を育てて行きたいと考えている。若い世代の市民にとっても有意義なサイトに育てたいと思うので、ぜひ多くの方に定期的な閲覧をお願いしたい。また「お気に入り」や「ブックマーク」に登録しておいてもらうと、とても嬉しいし、友人知人への講読ご推薦も是非お願いしたい。