大川端だより(430)


赤木圭一郎のCDを聞いていて、いろんなことを思い出した。ちなみに赤木圭一郎というのは、以下のような人物である(…念の為)。


石原裕次郎小林旭らと共に、日活の黄金時代を支えていた伝説的俳優。
アメリカの俳優、トニー・カーティスに似ていることから
「トニー」の愛称で親しまれていた。
また、和製ジェームス・ディーンと称されることも。
1939年生まれ。東京都出身。
商船大学を志望していたものの、受験に失敗。
成城大学へ進学後、日活映画のプロデューサーにスカウトされて、
第4期ニューフェイスとして日活に入社。
太陽の申し子のようにハツラツとしたキャラクターの石原裕次郎とは好対照に、
どこか憂いを感じさせるナイーブなキャラクターが、多くの人々を魅了する。
1961年の2月14日、日活の撮影所内でゴーカートの事故を起こし、
1週間後の2月21日に死去。享年21歳。(「はてなキーワード」より抜粋)


赤木の歌を聴いていると、なぜか「マドロス」という言葉が心に浮かぶ。歌詞(作詞は水木かおる)の中に出てくるわけではないのだが、名曲「霧笛が俺を呼んでいる」のせいかもしれない。


船の灯りに 背中を向けて

沖をみつめる淋しい鴎

海で育った 船乗りならば

海へ帰れと せかせるように

霧笛が俺を呼んでいる


このほかにも、「波に揺られて さまよう鴎/おれも気ままに さまよう鴎/海をねぐらと 心にきめて/流れ流れて 涯てない海を/どこへ流れて 行くのやら」(「俺の血が騒ぐ」作詞:滝田順)など、主人公が船乗り、つまり、「マドロス」であるシチュエーションが多い。


因みに、マドロスオランダ語の「matroos」から来たもので、「水夫・船員・船乗り」の意味である。この言葉が意外に古い。実は江戸時代から使われていたようで、あるブログ(「ネットゲリラ」)に次のような記述があった。


小林一茶の句に『マタロスが古郷を泣く明けかたに』というのがあり、一茶は寛政5年(1793年)彼が30歳 の時長崎に旅をしてこの句を作ったという。この句のように、当時日本では「マドロス」ではなく 「マタロス」と言われていたようである。」


これには驚いた。「マタロスが古郷を泣く明けかたに」なんて、まるで60年代歌謡曲の歌詞そのものではないか。これを見ても、日本が高度成長期までは江戸時代の延長だったことが実感できる。


赤き圭一郎が商船大学を志望していたことからも分かるように、50〜60年代は日本人全般に「海への憧れ」が強かった。その原因は、おそらく戦後の規制で庶民にとって海外渡航がほとんど不可能だったからだろう。日本の庶民が海外に行くには、船員にでもなるしか方法がなかったのである。


赤木圭一郎は、1961年2月に亡くなっているのだが、享年21歳である。赤木の映像を見ていると、21歳とはとても思えない。今どきの21歳とは全然「こく」というか、風格が違う。完全に大人だし、人生の哀愁さえ感じさせる。今生きていれば70歳である。どんな俳優になっていただろう。俳優は辞めて実業家にでもなっていたかも…。