大川端だより(429)


NHKの「こころの時代」という番組で、俳人の風見けんニが俳句の師匠である高浜虚子について語っていた。その中で虚子の句をいくつか紹介していたのだが、次の二句がとても好きである。


「流れ行く大根の葉の早さかな」


「籐椅子にあれば草木花鳥来」


最初の句は、ぼくの両親が俳人協会の会員だったため、少年のころに知ったのだが、その時に鮮烈なイメージが脳裏をよぎったことを覚えている。小川の澄んだ水にサッと流れていく大根の緑の葉っぱ。しかし、印象は鮮烈だったが、この句の深さはまだ分からなかった。


しかし、今日のテレビの風見の解説なども聞くと、なぜこの写生句がこれほど自分にアピールするのかがよく分かった。


高度成長以前の日本では、大根は買ったとき泥が付いているものであり、それを近くの川原で洗い落とすのが当たり前だった。そういう人間の日々の営みがこの句のベースにある。葉っぱの付いた大根を洗っていると、自然に葉が取れて流れていく。その流れの速さに、見ている虚子は感興を覚えているのだが、そこには自分を含めた人間というものの人生の時の流れの速さがオーバーラップしているのである。


写生句のすごさは、作った本人もその時にはそのことが分からないのだろう。しかし、後からよく考えてみると、意味の深さが実感できる。そのようなものとしての写生句というものの「素」の凄さが分かるのがこの句である。


二句目は、今回始めて知った句だったが、眼目は「あれば」にあると見た。「居れば」でも「おれば」でもなく、もちろん「座れば」でもない。自分がそこ(籐椅子)に「在る」のである。つまり、人間が自然とともに在ると、草や木や花や鳥が、やって「来る」のだ。ただこの句は、写生句というより、やはり観念句であると思う。だから、句としての存在感は「大根の葉」の句に一歩譲らざるを得ないのである。