大川端だより(424)


昨日の夜中(今日の早朝?)、テレビでNFLのスーパーボールをやっていた。アメリカンフットボールの王座を決める米国最大のスポーツイベントである。過去最大の1億650万人が見たという。試合はハリケーンで大打撃を受けたニューオーリンズを本拠地とするセインツが優勝し、復興のシンボルとして地元の人びとは大喝采したという。


ところで、ぼくがフットボールが好きになったのは中学校時代にタッチフットボール部に所属していたからである。タッチフットボールというのはアメフトの簡易版で、タックルの代わりに相手の背中にタッチするとボールがデッドになる。体と体の激しいコンタクトは非常に危険だから、少年向けのフットボールとしてつくられたもので、大学や高校でも女子タッチフットボール部のあるところもある。


今から50年も前にそれも大阪市立の公立中学校でにタッチフットボール部があった、というのは、ちょっと大袈裟かもしれないがほぼ奇跡に近いとも言えよう。ぼくは1年生の時からタッチフットボール部に入っていたと思うのだが、毎年、近畿大会に出場して、毎年3位だった。…というのは、近畿にタッチフットボール部のある中学校はたった4校で、大阪は松虫中学校、兵庫は関学中学、そして滋賀県に虎姫中学と長浜中学の2校で、ぼくらはいつも第一試合で負け、大体関学滋賀県勢が優勝し、負けた2校は同率3位になるというカラクリで、毎年近畿大会3位をキープしていたのである。


ところが、ぼくらが中学3年のとき、大柄で体力のある部員がそろい、とくにキャップテンの佐々木くんというのがとても優秀なクォーターバックで、かなり強いチームだった。ぼくはレフトエンドを守り、初戦の関学線で何回か佐々木君のパスを受けて、かなりヤードを稼いで前進したことを覚えている。結局このときも初戦で敗退したが、強豪関学中学に1タッチダウン差の大接線だった。


試合が終わって、たしか水道の蛇口の並んだ水飲み場のようなところで体を洗っていると、ハンサムないかにもエエとこのぼんぼんのような顔をした関学中学のキャップテンが隣に来て、「今日は危なかったな。エンドにやられそうだった」というような意味のことを言い、大阪市立松虫中学校タッチフットボール部の健闘を称えてくれたことを覚えている。ぼくにとってはこれが中学生活のハイライトだった。


ところで今、松虫中学のホームページを見ると同校にタッチフットボール部は無い。ぼくらが卒業した時点では下級生の部員もかなりいたので、何年間かはタッチフット部も存続したのだろうが、いつの時点かで廃部になったようだ。そもそもなぜ大阪の公立中学にタッチフット部があったのかも謎で、おそらく顧問の先生(井田先生だったかな?)が高校か大学時代にフットボールをやっておられて、それで松虫中学教師となって創部されたのだろう。でもその伝統のクラブも今は無い。


同校のHPによると、ぼくらが卒業した昭和37年は688人という大量の卒業生を出しているが、平成18年の数字はたった110人である。当時は現在の6倍以上の生徒数があったのだ。ぼくらにとっては栄光のタッチフットボール部も今はない。今は野球部が最大の部員数を誇り、陸上部がかなり強いそうである。でも、タッチフットボール部のない松中なんて、ぼくらにとっては「ケッ!糞喰らえ」である(笑)。