大川端だより(423)


アラン・ラッドの「ネブラスカ魂」(原題は、Whsipering Smith(囁きスミス=物静かな男)のDVDを見ていて、冒頭の部分が「シェーン」とそっくりなのには驚いた。雪山をバックに馬に乗った男がこちらに向かってやって来るのだ。しかしやっぱり、アラン・ラッドは典型的な白人の美男だと思うが、無敵のガンマン役なのに今風の個性やワイルドさはないなあ。


ところで、このDVDを見ていて思い出したことがある。三枚目の写真に写っている、アランがコーヒーを飲んでいるティンカップ(ブリキのカップ)がすごくかっこいいと思っていたことだ。ぼくが子どものころ、大阪の阿倍野区あたりでああいうカップはあまり見かけなかった。あるのはぜんぶ陶磁器のコーヒーカップで、西部劇に出てくるような、落としても割れないブリキのカップはなかった。おそらく人は、自分の周りに無いものに憧れを感じるのだろう。


ぼくが幼少期の昭和50年代前半は、もちろん今ほど自動車も少なかった。だから、車の排気ガスの匂いはある種の芳香と思っていたようで、クルマが発車した後のガソリンの匂いをみんなクンクンと嗅いでいた。当時のガソリンは結構不純物も多く、子どもの健康には良くなかったはずだけど、たまに通るクルマの排気ガスの匂いは、文明の象徴のように感じられたのかもしれない。いや、もっと単純に、ふだんはそんなに嗅ぐことのない匂いだったので、珍しかっただけなのかも……。こんな話は今の四十代より若い人たちには江戸時代の話のように聞こえるかもしれないなあ。


それからもう一つ覚えているのは、最初に積水のプラスチック製品が日本社会に出回ったとき、カップや色んな形のケース類を大人たちは非常に珍重し、ぼくら子どももアメリカ文明のスゴさを実感した。軽いし、落としても簡単には割れないことが、ガラスや瀬戸物製品に比べて、ものスゴく商品として優秀だと思っていたのだ。そして、日本にない優れた商品はぜんぶアメリカ製品だと思っていた。日本社会は本当に貧しかったのだろうが、ぼくら子どもは大人の苦労などどこ吹く風と、ほんまに元気やったで。