大川端だより(418)


『遠い太鼓』の中に、「まるで人生の日だまりのような一日」についての描写が出てくる。村上夫妻がギリシャのレスボス島を訪れた時のことである。同島出身の画家セオフィロスの美術館を出て、カフェに入り冷たいビールを注文すると、目の奥が痛くなるくらいよく冷えていた。静かな午後で、辺りには暖かい光が満ちていた。それは、「まるで人生の日だまりのような一日」だった。


村上は、「誰かが僕らの絵を描いてくれないかな、と思う。故郷から遠く離れた三十八歳の作家とその妻。テーブルの上のビール。そこそこの人生。そして時には午後の日だまり。」と書く。


セオフィロスという画家は、ギリシャ以外ではあまり知られてはいないが、ちょっと日本の山下清のような人だったのだろう。イノセント・アートというか、その土地独自の空気感を漂わせている画家である。画風を知りたいなら、つぎのHP(http://www.lesvos.com/theophilos.html)で確かめることができる。土地土地には、その土地でこそ魅力的だが、海外にもって行くとそれほど魅力が伝わらない画家たちがいる。セオフィロスという人もそのような存在なのだろうと思う。そもそも海外で展覧会など開かれることがない画家である。


ぼくもスペインのコルドバに行った時に、ウリオ・ロメロ・デ・トレスという画家の美術館に偶然入って、その絵に魅了された経験がある。彼の絵は、美人画というのだろうか、ちょっと肌の色の浅黒いスペイン美人を主たる画材としており、ある絵の前でキャンバスの中の女の目に捉えられたように感じた。見ている自分が動くと、それにつれて絵の中の女の目も動くのである。魅入られるというのだろうか、コルドバの画家の描く女性たちに釘付けとなった経験がある。でも、この絵も、例えば日本で展覧会を開いてもそれほど魅力的には感じないのかもしれない。要するに純ローカルな画家なのだ。画風は次のサイトを見てもらうと分かる。(http://images.google.co.jp/images?q=julio+romero+de+torre&hl=ja&lr=&sa=X&um=1


話は逸れたが、「人生の日だまりのような一日」に話題を戻そう。この18日にアップしたプエブロ・インディアンの「今日は死ぬのにとてもよい日だ」の詩(http://d.hatena.ne.jp/thayama/20100118)に出てくる「よい日」というのは、おそらく村上が書く「まるで人生の日だまりのような一日」に違いないと思うのだ。暑くも寒くもない5月とか11月の晴れた日に、大川端を歩いていて、つくづく「値千金」という言葉がぴったりの一日に巡り合うことがある。そんな時は、仕事のことなど忘れ、川端のベンチで一時間ほどぼんやりと、見るともなく周りの光景に目をやっていることがある。