大川端だより(401)


コミュニティ・ビジネスと市民活動を本当にうまく融合した活動家が亡くなった。まだ65歳だった。9月20日発行のマルマガ「市民ライター通信」に下記の記事を書きました。


◆故南野佳代子さんのご葬儀に参列して (thayama)


本メルマガの名物コーナー「市民ライターどんどん」の第1回目を書いていただいた、タウン誌「ザ・淀川」の名物編集長、南野佳代子さんが9月15日の夕刻に亡くなった。享年65歳。あんなにお元気で、あんなに明るかった人がもうこの世におられないことが信じられない。


本日(17日)11時からの葬儀に参列させていただいた。ふつう葬儀は1時間というのが定番だが、今日は30分長かった。それは、最後のお別れの前に、スクリーンに映した生前の写真を見ながら、二人の娘さんとタウン誌の若い女性スタッフの「送る言葉」があったからである。彼女たちの言葉の端々から、いかに南野さんが若い人たちにとって、憧れと勇気づけの人だったかが伝わってきた。ぼくが座っていた席のまわりからもすすり泣きが聞こえてきた。おそらく300人ぐらいの参列者があっただろう。“盛大な”しかししみじみとした良いお葬式だった。喪主(お連れ合い)による最後の挨拶は、涙声でよく聞き取れなかったが、静かだが確固とした愛が感じられた。


実は、南野さんとはそんなに古くからのお付き合いではなく、ぼくが大阪ボランティア協会に関わりだしてからのことである。市民活動総合情報誌『Volo(ウォロ)』の編集委員をしている関係もあって、何度か誌面にもご登場いただいた。


まず、2004年9月号の「私の市民論」コーナーに「住民が市民になると、世の中が変わる」と題したご寄稿をいただいた。そして、2006年3月号〜5月号には「語り下ろし市民活動」に3回連続で「まちづくり、仲間づくりの力はタウン誌から〜路地から路地を駆け巡って25年」とのタイトルで語っていただいた。取材と執筆は、当メルマガの常連ライター、錺栄美子さんだった。それから、2006年7月2日に行ったウォロ40周年記念イベントにはパネリストの一人としてお招きし、ぼくが司会進行役を務めた。


今から考えると、よくぞ「語り下ろし市民活動」(第7回)にご登場願っておいたものだ…というのが実感である。「語り下ろし」のコーナー・コンセプトは、秀でた市民活動でありながら、まだ世間にそれほど実態(実情)が総合的にレポートされていないものについて、その当事者が3回にわたって語りつくす、というものである。


南野さんの「語り下ろし」を再読していると、いろんな部分でぼくとの共通点があると思った。若いころの海外遊学、広報関係の仕事、ベ平連、情報誌等々。しかし、とてもじゃないが南野さんには適わないと思う。とくにあのバイタリティと実行力に…。あらためて、スゴイな、と思ったのは、淀川区、そして十三という地域のイメージを南野さんが中心になってすっかり変えてしまったことである。昔は、歓楽街、性産業、飲み屋街のイメージだけだったのが、今は個性的な地域文化の発信センターのような感じもある。しかし、今も昔も「ゴッタ煮感」だけは変わらない。最後に南野さん「語り下ろし」の最終パラグラフを掲げておこう。


「いろんな人とつながっていると思えるから、何があっても、何とかなるわの気持ち。今のような桜の季節や夕日が心に染みる秋の日などは、先にアチラ側に行った人たちともつながっているような気がして、あの顔、この顔が浮かびます。この淀川、大阪で、オバアチャンになるまで、今と昔と未来をつなぐタウン誌を作り出し続けたい。もうシックスティを超えて半分オバアチャンやけど、気持ちはシックスティーンのつもり。かなり、あつかましい(大笑)」。


呵呵大笑がよく似合う人だった。南野佳代子さんのご冥福をお祈りいたします。