大川端だより(395)


ベーシック・インカムのことをネットで調べていて、土田杏村(つちだきょうそん)という大正から昭和初期にかけて活躍した思想家のことを知った。土田は40代で亡くなっているのだが、昭和10年に全集が出ているから、当時は相当名の知られた人物だったようだ。彼がベーシック・インカムについて言及しているようなのだが、まだそこのところは調べがついていない。しかし、土田が江戸前期の大坂の俳人、小西來山を高く評価しており、「鉢に植ゑて甲斐なき萩のそよぎ哉」という句を、文芸の近代性の嚆矢である、としていることを知り、今度は小西來山(こにしらいざん)に興味が移り、彼について調べ始めた。


すると、事務所の近くにある大阪天満宮に來山の句碑があることが分かり、さっそく自転車で探しに行った。繁昌亭横の北門から神社に入って、左手回りで探し始めると、すぐに見つかった。「夜の明けて尾花大きく成りにけり」と刻まれた句碑は、來山の真蹟であるという。「尾花」というのはススキのことで、穂が動物の尾っぽににていることからの命名という。夜が明けて外に出てみると、ススキの穂がいつの間にか大きくなっていることに気づく。その感動を詠んだものだろう。


來山は江戸前期に活躍した談林派の俳諧師で、承応3年(1654年)に大坂淡路町薬種商の家に生まれた。7歳の頃から、西山宗因門下の前川由平に書画・俳諧を学んだ。そして、18歳で点者になっているので、若くして俳諧の才能はあったのだろう。あるHPには「俳諧では独特の感覚を見せ、談林調の道化や駄洒落から抜けて、蕉風の「さび」にも通じる作風を示した」とある。


「門松や冥土の旅の一里塚」とか「お奉行の名さへ覚えず年暮れぬ」など、反骨精神も感じられる軽妙洒脱な句が有名である。これらの句は聞いたことがあるが、來山の作とは知らなかった、という人も多いだろう。ぼくもその内の一人だった。インターネットで調べると、これら談林調の俳句のほかにも下記のような諸句がある。


水ふんで草で足ふく夏野哉     


白魚やさながら動く水の色


行水も日まぜになりぬ虫の聲


両方に髭があるなり猫の妻


時雨るるやしぐれぬ中の一心寺


涼しさに四ツ橋を四つ渡りけり


秋かぜやことし生れの子にも吹く


酔うて酔うて氷くだいて星を飲む


花咲いて死にとむないが病かな


春雨や降るとも知らず牛の目に


早乙女やよごれぬものは声ばかり


春雨や火燵の外へ足を出し


青し青し若葉は青し雪の原


ほのかなる鶯きゝつ羅生門


我寝たる首上げて見る寒さかな


ものいはゞ人は消ぬべし白牡丹


かがり火の中へ空しき落葉かな


行方なき雲に組して野分かな


なお、小西來山の辞世は「來山は生れたとがで死ぬるなりそれで名残も何もなし」というもの。