大川端さくらだより(360)


今日はあいにくの雨模様です。せっかく花は一生懸命咲いているのに、やはり観る人は少なくなるでしょう。雨と言っても豪雨ではなく、やさしい春雨だから、それほど花は散らないと思います。明日の日曜日、晴れるといいですね。大川のレガッタもあるみたいだし…。それから3月末に発行した「市民プロデューサー通信」に書いた原稿を下記に掲げておきます。よかったら読んでください。アンガージュマンなんて懐かしい言葉も出てきます。


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┃┃■ 黒ビールでも飲みながら……(136)
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 「もう一つの民意の回路」(1)


▼「七人の侍」の助監督をしていた廣澤榮の『日本映画の時代』(岩波現代文
庫 1000円+税)を読んでいて、戦前の日本の庶民のメンタリティを表わすエ
ピソードに行き当たった。戦争中の小学生は毎日のように出征兵士の見送りを
させられたようで、紙製の日の丸の旗を振りながら軍歌を歌うのだという。


▼軍歌のリズムに合わせて、右上に振り上げた旗を斜めに左下へと振り下ろす。
簡単そうに思えるが、小学生にとっては重労働で、精一杯にやっていると、声
がカラカラになってくるそうだ。戦争が激しくなってくると、夜も担任教師に
引率されて、列車輸送されていく兵士たちを見送った。小学生たちは旗を振り、
歌を歌い、万歳を叫ぶ。「まさに異様なまでのフィーバーぶり」だったという。


▼その熱気に当てられたのか、一人の兵士が汽車の窓から顔を出し、小学生た
ちに向かって叫んだ。「ようし、チャンコロの首の二つや三つ、おみやげに持
って帰ってやるぞ!」。今の若い人たちはご存じないかもしれないが、チャン
コロというのは中国人の蔑称である。廣澤は次のように書いている。


▼「そのことばを、いま強烈な印象で思い出す。あの兵士は中国戦線へ行って
そのことば通りに実行したのであろうか?−−−出征してゆく方も、それを見
送る私たちも、戦争の加害者などの意識はカケラもなかったと思う。まさに異
様なまでのフィーバーぶりであったといえよう。」


▼戦後教育を受けたぼくらは戦前を暗い時代、人々が軍部に抑え込まれていた
時代だったと思いがちだが、そんなことは決してない。民衆が支持し、熱狂し
なかったら、また敵を劣った、征服されて当然の存在と見做さなかったら、い
くら軍部がしゃかりきになっても、あんな侵略戦争が遂行できたはずがない。


▼それと同じことが言えると思うのは、現在の日本の政治状況である。日本の
議会制民主主義は本当にどうしようもなく、この世界的な不況のさなかに、完
全に機能不全に陥っている。ところがそれに対して日本の市民はどこか冷めて
いて、「鼻くそが目くそを笑う永田町」というような政治的シニシズムでもっ
て、当事者性を完全に放棄しているように見える。


▼戦時的熱狂と平時のシニシズム冷笑主義)はまったく違うように見えるが、
実は同じことなのではないかと思うのだ。どちらも、無責任なノン・アンガー
ジュマンなのである。アンガージュマンという60年代に流行ったフランス語の
意味が分からない人も多くなっていると思うので、手元のスーパー大辞林を引
いて、その語義を下記に示しておこう。


▼engagement〔関与・拘束の意〕フランス実存主義の用語。状況に自らかかわ
ることにより、歴史を意味づける自由な主体として生きること。サルトル・カ
ミュなどではさらに政治的・社会的参加、態度決定の意味をもつ。


▼ノン・アンガージュマン、すなわち「主体的な社会参加、政治参加をせず、
戦前は歴史に翻弄されただけ、現在は冷笑的に政治状況を眺めているだけ」と
いうのが、ぼくを含めた日本の民衆(市民)の態度なのである。


▼「デモクラシー」というのは、「民衆による統治」という意味であり、まさ
に市民が主体的に社会や政治にかかわっていくシステムであるはずだが、今の
日本の政治状況は、地方でも国レベルでも“議員”という名の権力者たちが勝
手に主権者たる民衆(市民)を差し置いて、自分たちの都合のいいように物事
を決めていっている。国政レベルでは、主権者たるぼくら市民は、もう5年間
も選挙による意思表示さえさせてもらっていないのだ。


▼にもかかわらず、裁判員制度はすぐに始まるし、定額給付金も支給される。
また、ほとんど国会での議論もなく、海上自衛隊護衛艦ソマリア沖に派遣
される。ぼくら日本の市民は、議会制民主主義ではない、もう一つのつの民意
の回路がどうしても必要なのだ。


▼そこで考えられるのが、「討議デモクラシー」という直接民主主義的なもう
一つの民意の回路である。(次号に続く)