大川端だより(353)


『Volo(ウォロ)』3月号の特集「『批判』と『共感』@市民創出メディア」に書いた記事は、紙幅の関係で草稿にあった二つの段落(パラグラフ)を割愛した。削ったのは、最初の部分と、最後のほうで村上春樹さんの言葉を引用したパラグラフである。そこで、下記に全文を掲載しておくので、興味と時間のある人は読んでな。


■「『共感』による市民メディア」考


●「共感のジャーナリズム」というコンセプト


 今回の特集企画は最初、ぼくが「共感のジャーナリズム」というテーマで編集委員会に提案し、3人の執筆候補者が手を挙げたので取り上げることが決った。しかしその後、時間的な制約から、3人が特集チームとして1回も集まれず、企画のコンセプトを深化させることができなかったこともあり、「批判も大切」とか「共感だけではダメ」といった意見が出て、企画を再考することになった。


「共感のジャーナリズム」という言葉は、あるときに、ふとぼくの脳裏をよぎったコンセプトである。私事になるが、去年は市民記者・市民ライター系の講座で講師を務める機会が多く、そのなかで、「市民活動の現場で書くことの意味」について考えなければなかった。そして、その際にあらためて認識したことは、基本的に市民活動というのは、何か(誰か)に共感するからこそ、ボランタリーに支援を始めたり、政策提言をしたり、それを取材し、記事にするということだった。


では、その「共感」とは一体なんなのだろう?


 手許の電子辞書の「スーパー大辞林(日本語辞書)」によると、共感とは「?他人の考え・行動に、まったくその通りだと感ずること。同感。?《心》〔sympathy〕他人の体験する感情を自分のもののように感じ取ること。?《心》〔empathy〕感情移入」とある。どの定義も、ぼくにはしっくり来ない。


 そこでOXFORD現代英英辞典で、?の「シンパシー」と?の「エンパシー」を引いて、その定義を日本語に訳すと、前者は「誰かに対して気の毒だと思う感情。誰かの問題に対して、理解し、気にかけていることを示すこと」となり、後者は「他の人の感情や経験などを理解する能力」となる。


 ぼくが「共感」という言葉に対して持っているイメージは、英語の「シンパシー」の定義にピッタリである。仕方なく問題を抱えていたり、好ましくない環境に置かれている人たちに対する感情移入なのだ。


 だから、「共感」という言葉に対するぼくのイメージのなかには、ブッシュ前米国大統領の対テロ戦争への圧倒的支持を表明した人びとや小泉元総理への高い支持率を示した人びとの感情を「共感」という言葉で表わす感覚はない。あれは共感というより、感情に流された熱狂だったのではないか。


●マスメディアの基本的な役割は権力批判


 市民ライターは、新聞記者のように批判精神を発揮するよりも、共感性に基づいて取材・インタビューしなければならない場合が圧倒的に多い。だからとにかく、相手に共感し、相手の活動に興味を持つことがいちばん重要である。相手のことが知りたい、相手の行なっている活動がなんておもしろいんだろう…という感じが向こうに伝わりさえすれば、取材はほぼうまくいく。


 基本的に人間には、自分のしている意味のある活動や仕事をほかの人たちに伝えたい、分って欲しい、という欲求がある。だからぼくらがするべきことは、真摯に、相手に共感して話を聞くことである。つまり、「共感力」こそ、市民メディアの強力な“武器”の一つなのだ。


 もちろん新聞や雑誌のようなマスメディアも、批判精神だけではなく、共感性に基づいて取材をしなければならないときがある。例えば、震災や事故の被害者の窮状を社会に向かって訴える場合だ。しかしやはり、マスメディアに受け持ってもらいたい中心的な役割は権力批判である。マスコミには、『ウォロ』のような市民メディアにはなかなかできないことをしてもらいたいと思う。
 

 真っ当な批判というのは、極めてコストのかかる行為である。例えば、政界の権力者や財界の大立者を批判するには、その人物が批判に値することを証明しなければならない。そのためには、プロの記者による地道で、長期間にわたる取材が必要となる。根拠のない誹謗中傷ではなく、証拠を固めた批判は、マスメディアの主要な役割である。なぜなら、権力批判という仕事は、取材・執筆の専門家である記者と、ジャーナリズムとしての信用と、十分な取材時間と費用がなければ、なかなかできることではないからである。


 しかし、『ウォロ』のような市民創出メディアには資金力はないし、専従のスタッフも数少ないから、証拠を固めた真っ当な批判はなかなか出来にくい。しかしもちろん、市民メディアとて、貧困や差別などの現場に立脚しつつ、官僚が犯す明白な誤謬や政治権力の想像力欠如による傲慢に対する批判は常に行わなければならないだろう。


●市民メディアの“武器”としての共感力


 「市民活動総合情報誌」と銘打った本誌に課せられた中心的なミッションは、共感性に基づいた市民力のエンパワメントではないかと思う。少子高齢化、人口減少、低成長、環境志向などの言葉で表わされるこれからの社会の存立基盤は、市民の自治力であり民主主義である。そして、市民が行政や企業と肩を並べられるパワー(知性と感性、創造力、構想力、アイデア等々)を発揮することによってはじめて、真の意味での市民主体の民主主義社会が成立するのだ。


 「共感力」こそ、新しい社会を築くための“武器”だと思う。ところが、現代社会においては、共感と批判を天秤にかけると、圧倒的に批判の比重が重いのではないか。新聞やテレビの毎日のニュース報道の基調は批判だし、ネット上に数多ある個人ブログの内容も人物や事象への批判が中心的であるように思う。新聞やブログの「批判」と「共感」の割合は、何の根拠もないが、ぼくの感覚から言うと、だいたい8対2ぐらいではないかと思う。


 だからこそ今、ぼくらは、「共感」をベースにしたジャーナリズムを目指すべきだと思う。「批判」基調のマスメディアや個人ブログに対し、『ウォロ』は「共感」という“武器”を携えてどこへでも赴かなければならないと思うのだ。


 作家の:村上春樹氏は「エルサレム賞」受賞スピーチにおいて、「高くそびえる硬い壁と、それにぶつかって壊れる卵があるとき、ぼくはいつも卵の側に立つつもりです」(Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg.)と言った。


 市民メディアにおける「批判」は、基本的に、共感を覚えずにはおれない貧困や虐待や環境破壊などの「現場」に立脚したものでありたいと思う。自分たちだけではどうにもできない立場に置かれた人びとに対する徹底した「共感」からの言葉こそが、あたかも「寸鉄人を刺す」如く、最もパワフルで効果のある、権力や金力の理不尽に対する「批判」になるのではないだろうか。