大川端だより(324)


前回の更新が10月21日だから、もう一ヶ月以上になる。9〜11月は講座などが多く忙しかった。ライター系のものが3講座12回もあり、ならすと1週間に1回は講座をやっていたことに生る。ただ、ライティングの講座はやっていて面白いし、受講生の人たちも回を重ねるごと力がついてくるのが分かって楽しそうである。ただ、書く力は急速に上達するものではなく、何回も書いて、失敗して、経験を積んで、だんだん上手くなる。だからあんまり慌てて急がないほうが良い。ゆっくりと年月をかけて上達すればいいのである。


昨日、夜中にマハトマ・ガンジーについてのテレビ番組があり、彼の「よいものはカタツムリのように進むのです」という言葉を紹介していた。確かにそうだと思う。反対に、悪いことは急激に進行するのではないだろうか。急進主義というのは良くない。若いときはどうしても急激な変化を求める。それは、若者にとって社会(世界)の進行がとても遅く感じるからだと思う。しかし歳をとると、世の中の流れがものすごく速く感じるので、もっとゆったりとした時間の流れが好ましいものと映るのである。


下記の原稿は市民ライター通信の11月号に書いたものです。


江戸人の“三ない主義” by thayama


「盥から盥へうつるちんぷんかんぷん」


小林一茶の辞世の句である。産湯を使った盥(たらい)から、湯灌(湯で死体を拭き清めること)の盥までの間、ちんぷんかんぷん、つまり「訳わからん」のが人の一生だ、という意味であろう。室町後期の連歌師山崎宗鑑の辞世「宗鑑は何処へと人の問(とふ)ならばちと用ありてあの世へと言へ」に勝るとも劣らぬ傑作ではなかろうか。一茶は江戸時代後期の人だから、宗鑑の三百年ほど後進だが、俳味(軽妙洒脱な味わい)という意味では同類の辞世と言えよう。このように死を微苦笑(?)で迎えられるなら、願ってもないことではあろう。


表題の辞世は、最近読んだ『日本人なら身につけたい江戸の「粋」』という新書(河出書房新社 定価756円)で知ったのだが、江戸の「粋」のベースには彼らの「その日ぐらし」のライフスタイルがあったようである。お金を貯めたり、将来計画を立てたりすることができなかった江戸人の物質的な貧しさと身分の固定化という現実があり、仕方なく「その日ぐらし」せざるを得なかったのである。しかし、「三ない主義」と言われる江戸人の“思想”は、世界中で金融バブルが弾けた今、大きな意味を持ってぼくらの前に立ち現れる。


「物を持たない」、「出世しない」、「悩まない」というのが江戸の三ない主義と言われるものである。つまり、欲がないのだ。しかし、だからといって彼ら江戸人の日常生活が貧しく惨めだったかというと、そうではなく、むしろ毎日が楽しく、心が軽く、生き生きとしていた……と件(くだん)の新書では力説している。さもありなん、と思う。惨めさ、苦しさ、悲嘆の根底には必ず「欲」というものが横たわっている。


そういう視点で、今回の英米を中心とした金融バブルの崩壊を見れば、「欲の塊としての金融資本主義の瓦解」というコンセプトが導き出される。つまり、江戸人流に言うと、英米流の金融資本主義というのは「粋じゃねぇ」のである。


無粋で、命の本質が見えていない。人間、生まれてから死ぬまで、毎日を真っ当に生きて、江戸人がそうしたように、自然の変化や人情の機微を楽しみ、最後は人生の意味を悟ったりせず、なんだかちんぷんかんぷんだったけど、「ああ、楽しかった」と言って何も残さず死ねばいいだけ…、一茶の辞世はそう語っているようにぼくには聞こえる。