大川端だより(323)


◆書評


『暴走する資本主義』と『ベーシック・インカム



最近、相次いで表題に掲げた2冊の本を読んだ。
『暴走する資本主義』(東洋経済 定価2000円+税)の著者は、クリントン政権時代に労働長官を務めたこともある、カリフォルニア大学バークレー校のロバート・B・ライシュ教授。英文タイトルは『Supercapitalism〜The Transformation of Business, Democracy, and Everyday Life〜』となっており、和訳すると『超資本主義〜ビジネスと民主主義と日常生活の変質〜』。日本語の題名は、いかにも大手出版社の敏腕編集者が拡販のために付けたものらしく、なかなかセンセーショナルで売れそうな良いタイトルである。ただ、内容を的確に表わしているのは原題のほうで、70年代からの資本主義の変質について書かれた本である。


ベーシック・インカム』{現代書館 定価2000円+税}の著者は、ドイツ人のゲッツ・W・ヴェルナーというドラッグストアチェーンの経営者である。そのチェーン展開は全ヨーロッパに及び、堂々の多国籍企業であるという。副題に「基本所得のある社会へ」とあり、全てのドイツ国民に年齢に応じて何がしかの基本所得を保証すべきだ、との論旨が展開されている。荒唐無稽な主張のようにも思えるが、読んでみるとなかなか説得力がある。なぜ、大企業の社長がベーシック・インカム制度を推進しようというのか、大変興味のあるところである。


 さて、では、もう少し詳しくこれら2冊の内容を紹介することにしよう。


『暴走する資本主義』の論点は、グローバルな市場経済はなにも80年代にレーガンサッチャー新自由主義を掲げて金融改革などを進めたからではなく、60年代後半から70年代以降に起こった数々の技術革新によるものだ、ということである。例えば、鋼鉄製のコンテナ運輸システム、インターネット、グローバル・サプライ・チェーン等々のイノベーションによる下部構造の変質が根底にあり、新自由主義という上部構造がもたらされたのである。この辺りは読んでいてマルクスを思い出した。


とても面白いのは、ベトナム戦争激戦期に、何十万人という在亜の米軍将兵に必要物資を送るために考案されたコンテナ・システムが輸送量の飛躍的な拡大をもたらし、それが結果的に市場のグローバル化を急伸させた、という事実(統計など)に基づく指摘である。コンテナがなかった時代は、木製のケースで物品が輸送されており、効率も運輸量も鋼鉄製のコンテナの比ではなかった。米国からコンテナでベトナムなどへ物資を送ったあと、空のコンテナに日本で衣料や家電製品等を積載したため、日米間の貿易が増大した。これが経済のグローバル化の端緒だったとも考えられる。


ベーシック・インカム』の主張するところは、そうしたグローバリゼーションによるドイツ国内の、とくに若者たちの失業率の増加と、そのことに起因する貧困化という問題を解決する方策として、基本的生存権ベーシック・インカムによって保証しよう、ということである。いちばん問題になるのは財源であるが、著者のヴェルナーによると、段階的に消費税(付加価値税)を増大することによって可能であるという。その代わりに、生活保護費などの福祉に費やされるや税金はなくなる。所得税法人税もゼロとなる。また、それらの管理コスト(官僚の人件費等)も激減する。


ヴェルナーの主張で「なるほど」と納得させられたのは、所得税法人税など、稼ぎにかけられる税金は、付加価値を生んだことに対するものだが、消費税は人間が消費した場合にだけ掛けられるものである、という論点である。多く消費する者はそれだけ多くの税金を払い、少なく消費する者はそれに応じて少ない税金ですむ。


またもう一つ興味深い主張は、「働く」ことと「収入」との相関関係の解体の必要性についてである。働くことと収入が密接していることによる弊害は、人間が稼得労働に対して過大な意味を付与することである。その典型が、「働かざる者、食うべかざる」という主張だ。この考え方が現状に即していないことは自明であろう。働きたくても働けない人たちはたくさんいる。失業者、重度の障害者、子育て中の女性……等々。つまり、生活の糧を得るために働かなければならない、という人類の桎梏から今こそぼくらは解放されなければならない、というのがヴェルナーの議論である。食うためではないが為すべき仕事(work)は、ボランタリーな市民活動や老親の世話、家庭における子どもの教育等々、山ほどある。働かなくても食えたら人は働かないだろう、という人間認識は的を射ていない。


両書を通読しての感想は、時代のパラダイム転換ということである。第二次大戦で数千万人の人が死に、アメリカ本土を除いて、日本でも欧州でも多くの生産手段が失われたあとの、1950〜1970年代にかけての世界的な経済成長と“完全雇用”の神話は、完全に霧散した。しかし、機械的な生産力は増大しており、それに反比例して従来的な労働(labor)への需要は減少の一途をたどっている。好むと好まざるとに関わらず、どの分野においても大胆な発想の転換が求められているようだ。