大川端だより(300)


週末、土曜日は高齢者外出介助の会主催のコムケアフォーラムにてOさんと対談。
日曜日は、大川端で夜桜見物。今日は朝から雨なので、昨夜お花見をしておいて
よかった。


下記に掲げた記事は、市民プロデューサー通信148号に書いたものです。
とても面白い本で、奥野修司さんというノンフィクション・ライターには
注目していこうと思っています。次は『心にナイフをしのばせて』を読むゾ。


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┃┃■ 黒ビールでも飲みながら・・・・125
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  『ナツコ−沖縄密貿易の女王』を読む


奥野修司の『ナツコ−沖縄密貿易の女王』を読んでいる。終戦後の数年間、
沖縄には食料や物資がまったくないうえ、米軍政府は管理貿易を初めとする統
制経済を押し付けたので、人びとは日本本土ばかりではなく、台湾やフィリピ
ンなどと盛んに密貿易を行ない、生活に必要な物資を手に入れた。


▼“密貿易”などと言うと、不穏当に聞こえるだろうが、沖縄の民衆にとって
はやむにやまれぬ抵抗の手段だった。その中心にいたナツコに言わせると、
「あんただって天皇陛下だって食べなければ生きていけない。沖縄には米も調
味料もないんだよ。いくら物価統制令があっても、ものがなくては腹が減って
苦しいでしょ?なにもない沖縄のために食糧を運んできてなぜ逮捕される?」
ということになる。


▼1941年に日米が戦争に突入したとき、ナツコは「この戦争は負ける。沖縄は
全滅するよ」と周囲の親しい人たちに語って、驚かせている。なぜそんなこと
がナツコに分かったのかというと、彼女がフィリピンで働いていたときに、ア
メリカ的な暮らしぶりの日本との桁違いの豊かさを体感していたからだ。


▼沖縄ではめったに白米が食べられなかった時代に、マニラでは電気冷蔵庫が
あり、豊富な食料が詰まっていた。沖縄の人たちは、古くから海外移民として、
南米やフィリピンや台湾に出稼ぎに行っていたので、日本を外から見る機会に
恵まれていたのである。


与那原恵による本書の解説によると、「1946年から51年まで、沖縄はケーキ
(景気)時代と呼ばれていた。誰もがこぞって密貿易にかかわる異様な時代。
誰にも頼れないかわりに、才覚、度胸ひとつで大金をつかむことができた時代
であった。彼らから『女親分』と呼ばれた夏子は、彼らの上に君臨したわけで
はない。貧しかったが夢のあった時代の象徴だった」という。


▼まだ半分ぐらいしか読んでいないので、きちんとした書評は書けないが、痛
切に感じたのは、一人のノンフィクション・ライターの果たせる役割の大きさ
である。実は、奥野がこの本を書く前、ナツコが活躍した沖縄のケーキ時代に
ついてはほとんど何の文献もなく、人びとの記憶から消失しようとしていた。


▼たまたま、奥野が古ぼけた一杯飲み屋に立ち寄ったところ、そこにはオジィ
やオバァが“団体”でいて、賑やかな彼らの口から「ナツコ」とか「ヤミショ
ウバイ」といった言葉が聞こえてきた。興味を持った奥野が尋ねると、あるオ
ジィがまるで昔の恋人について語るように、「ヘヘッ、ナツコはよ、あれは闇
商売の親分よ。何をやるにもいちばん。大の男がナツコに命令されたら、ハイ
どころか、ウッウッとしか言えなかったさぁ。あれは女傑のなかの女傑よ」と
語りだす。


▼おそらく、奥野というひとりのライターが、その場に居なかったら、沖縄の
ケーキ時代については徐々に忘れ去られていたはずだ。なぜなら、“違法な時
代”については、公的な記録は残せないし、その時代を知っている人びとは少
しずつ櫛の歯が抜けるように亡くなっていくからだ。


▼沖縄の“ケーキ時代”は、われわれに国や行政、公的なシステムがなくても
人びとはたくましく生きていけることを教えてくれる。本書はアナーキー(無
政府的状態)が決して民衆を不幸にするのではなく、才覚と勇気のある人たち
にとっては、むしろ輝かしく、非常に開放感に溢れた時代であることを示唆し
ている。奥野のおかげで、こういう民衆の歴史が蘇ったことを嬉しく思う。
                             (thayama)