大川端だより(290)


冬真っ盛りです。大阪城の枯れ木立は冬の“キッパリ”感を主張しているようです。梅林の梅もちらほらほころびています。以前「市民ライター通信」に書いたキザな文章を下記に紹介しておきます。


「冬」


 冬は、精神を研ぎ澄ますナイフである。
 

 とりわけ、風の強い晴れた日がよい。風花が舞っているとさらに素敵だ。頬
や鼻頭を刺す向かい風に抗って歩いていると、自分が自然によって鍛えられて
いることを実感する。冬の、心に喝を入れられるような精神性が好きだ。


 春夏秋冬、それぞれに良さがある。だから、どの季節がいちばん好きか、と
いう問いは愚問であろう。しかし、スキー愛好家などを除いて、冬を好きな季
節とする人はそれほど多くないと推量がつく。


 また、四季を人生に譬えて、春を青少年期、夏を壮年期、秋は中年期、そし
て冬を老年期とすることが多い。冬は、いかにも人生の最終局面のようなイメ
ージを付与されている。しかし実は、冬こそがいちばん若い刻(とき)である。


 冬枯れとは、現象的には植物の死を意味するが、あたかも赤子が母の胎内で
絶え間ない成長を続けているように、繁茂へと育ち続ける生命を胚胎している
現象である。つまり、冬には、外部に現れている死の世界と、内蔵されている
とてつもなく豊穣な生命の世界がある。


 寒風に向って歩き、褐色の欅(けやき)の、ブラキオサウルスのような裸木
を見ていると、春に向って芽吹こうとしている命の胎動を感じる。私は、燃え
盛る夏の中にむしろ死を感じ、冬の寒冷に生命の息吹を感じるのである。