大川端だより(278)


下記の原稿は、以前「市民ライター通信」に書いたものです。


「創造よりも鑑賞を」


何か新しいものを創造することに努力を傾注するより、今ある優れたもの、美しいもの、幸せな状態を享受することを中心に、人生や教育や社会を組み立てることを提案したい。


今この社会は、あまりにも新しいアイデアやモノを作り出すことに注力しすぎているように思う。独創的であることが最高の美徳とされ、今までにないもの、さらに便利な商品、より速い乗り物、以前よりも能率的なやり方などを開発することが至上の課題とされる。しかしそれは、必然的に過酷な競争を生む。そして、一握りの勝者と大多数の敗者が生まれ、ほとんどの人たちが不平不満を内奥に秘めている。


しかしながら、まったくオリジナルなもの(独創物)などはない。誰からも、また何の影響も受けていない創造なんてあるはずがない。創造性、独創性なんていっても、たかだか微小な差異にしか過ぎない。「微小な差異が発展の原動力だ」という声が聞こえてきそうな気がする。企業活動において今日ほど、“差別化”という言葉が使われる時代はなかっただろう。しかし、この世界は、差別化によって本当に日々進歩発展しているのだろうか?


江戸時代と現在とを比べて、どちらがより発展しているか、と問うと、おそらくほとんどの現代人は「今」と答えるだろう。確かに、江戸時代に大坂と江戸を半日以下で往復できるなんて夢想だにできなかっただろう。しかし、逆に考えれば、今われわれが必死になって求めている地方分権やリサイクル社会、きれいな空気や水は江戸時代には溢れかえるほど存在した。


「でも、江戸時代は身分制、封建制社会だった」。


確かに。インディヴィジュアル(これ以上分割できない存在)、つまり「個人」が基本である社会ではなかったが、持続可能な社会だった。今は個人の権利や独創性は最大限に優遇されているかもしれないが、持続不可能になるかもしれない社会である。


私の提案は、現在すでにある優れたもの、美しいもの、良きものをまず徹底的に鑑賞・享受することから始めよう、ということなのだ。とくに子どもたちは、自分のオリジナルな作品を創ることに専心するよりも、まずすでに創られているすばらしい古典や、さまざまなジャンルの現代の作品群、文学、音楽、美術、演劇、映画など、そしてまた美しい自然や景観を観賞することが先決だ、と言いたいのである。十分にそれらの価値が分かり、その素晴らしさを享受する能力は、創造性を胚胎させる最高のふ卵器であるはずなのだ。