大川端だより(274)


■「人類史は闘争史なのか?」


一般的に、「人間の歴史は戦いの歴史だった」というステートメントは受け入れられやすい。「人生は闘いだ」とか「競争によって社会は進歩する」というような物言いも、みんなの経験に照らして受け入れられやすいように思う。でも、本当にそうなのだろうか。つまり、闘争、競争、戦争、競い合いがなければ、人間は進歩してこなかったのだろうか?


この問いに対しては、もし人類史が「戦いの歴史」であり、戦いの勝者、つまり強いものだけが生き残って来ているのだとしたら、今ここにこうして生きている自分も勝者・強者なわけで、「んなわけはない」というのが率直なぼくの感覚である。


逆に、「人間の歴史は協働の歴史だったんよ」とか、「みんな助け合って生きてきたのさ」とか言われたほうがより納得がいく。だって、ちょっと考えみても、育ててくれた親や学校の先生、友人や知人からの数多くの「a little help」なしに、今こうして自分が生き長らえていることはありえないと思うからだ。


おそらく、ダーウィンの「進化論」とマルクス主義的「闘争史観」が「競争がないと進歩がない」という“屈強”な思想を生み出したのだろうけど、よくよく考えてみたら、今のように高度で複雑な社会が、もしみんなが協力より競争を優先していたとしたら存在しているはずがない。


自分が書いた手紙が世界中のどこにでも届くこととか、ほぼ地球上のどこへでも個人の資格で行けるようになっていることとか、様々な人類の共通ルールが実際に適用され、それが実効性を持っているということは、人類の歴史が「闘争の歴史」というより「協働の歴史」という面が強いことを物語っているのではないだろうか。もちろん、ある程度の「勝った、負けた」が必要なことは充分認めますけどね…。