大川端だより(272)


以下、メールマガジン「市民プロデューサー通信」より再掲します。


■「如何なる場合にも平気で生きて居る事」


長谷川櫂著『俳句的生活』(中公新書)の受け売りだけど、正岡子規は病床にあって、「余は今迄禅宗の悟りといふ事を誤解していた。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違いで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた」と書いた。


「如何なる場合にも平気で生きて居る事」というフレーズは凄い。ごぞんじの通り、子規の晩年は脊椎カリエスのため、絶え間のない苦痛に悩まされる日々だった。彼の有名な句「幾たびも雪の深さを尋ねけり」にあるように、寝たきりの生活で、雪が降っても寝床から起きて雪の積もり具合を自分の目で確めることさえできなかった。そんな彼が、平気で生きていることこそが悟りだ、と悟る。この認識はスゴイ。


最近、大ヒットした映画のお陰でまた流行りだした「サムライ」の世界では、いつでも平気で死ねるのが肝の据わっている証拠とされたようだが、おそらく死ぬよりもどんな状況でも平気で生きていることのほうが何倍も難しいだろう。


ちょっと考えてみても、突然末期ガンを宣告されたり、明日から収入が全く入って来ないことが分ったり、さっきわかれたばかりの最愛の人が交通事故で亡くなったり、半年先に巨大隕石が地球にぶつかることが確実だとしたら、生きていくよりも死を選ぶという人も多いのではないかと思う。


何があっても平気で生きていくことは、絶望して自殺するよりもずっと難しい。沢木耕太郎氏の『無名』について書いたときに、「その肩の無頼のかげや懐手」という彼の父親の俳句について言及したが、何があっても平気で生きていることこそが市民的"無頼"だと思う。


この国では、毎年3万人の自殺者があるという。不況による経済的な理由から、中高年者の自死も数多いと聞くが、本当に自殺者の責任ならまだしも、リストラによる失業や倒産などは経済や行政や政治といったシステムの失敗によるものがほとんどなのだから、なにも死ぬことはない。たとえ消費者金融の取り立て屋が騒ぎ脅そうが、こちらは市民として"無頼"を貫けばいいだけのこと。


ガラにもなく勇ましいことを書いてしまったが、もちろん、どんな場合にも平気で生きていることなど簡単にできることではおません。「お前にできるのか?」と問われたら、「あまり自信はない」と答えるしかオマセン。しかし、だからこそ、ぼくは"無頼"という言葉に憧れるのです。日本のフツーの市民は、長い歴史の中でおよそ昭和の半ばまでは極めて貧しい生活を送り、悩み苦しみながらもシブトク生きていたのだから…。