大川端だより(230)


“江戸時代パラダイス論”がある一方で、庶民にとっては貧困と重労働の苦しく不幸な時代だったとする否定的な江戸論もある。例えば、年貢米は、場合によっては全収穫量の7割も供出しなければならなかったので農民はいつも飢えていた、という見方もあれば、農民は米以外の作物が自由に作れたので、食物にはそんなに不自由しなかった、との見解もある。


労働時間にしても、年がら年中、長時間働いてやっと糊口を凌げた、という史家もいれば、電気もコンピュータもない時代だから、暗くなれば働けないし、盆と正月だけの休みと言っても、労働密度がそんなに濃いものではなかったので、案外人々はのんびりしていた、というようなことを言う人もいる。


おそらく実態は、両者の中間ぐらいだったのだろう。ただ、江戸時代の大坂には武士は二千人ほどだったようだし、民政を担当する町奉行所には百六十人ほどの与力・同心がいただけだから、当時の人口四十万人を統治するには、全ての分野でかなり民衆の自治的な裁量に委ねざるを得なかったはずである。建前としての身分制度はあっても、地方分権や住民自治、環境志向は江戸時代のほうがずっと進んでいたのかもしれない。


ただ、生産力が現在と比べると、比較にならないほど低かったので、飢饉の時は本当に大量の餓死者が出たようだ。天保の飢饉のときに大塩平八郎が反乱を起したのも、彼が農村部の窮状を熟知していたからだ。しかしもちろん、生産力が低かったからこそ、土居さんの土曜日のレクチャーにもあったように、大川の水も澄んでいて、天満は水が良いことで知られ、たくさん造り酒屋もあったのだろう。


天六にある「大阪くらしの今昔館(住まいのミュージアム)」で江戸の街並みを見ていたら、当時の暮らしがどんなものだったのか、あれこれ想像していた。ただ、あの街並みは、ぼくらの子ども時代には当たり前の風景で、高度経済成長前の昭和30年代の大阪の下町の長屋はどこともあんなものだった。洗い張り、懐かしい風景です。