大川端だより(229)

大阪出身者以外で、「立売堀」を正確に読める人はまずいないだろう。ふつうなら「たちうりぼり」としか読めない。ところが、これは「いたちぼり」と読むのである。どう考えても変な読み方である。さて、その由来とは?


市民塾2では、ぼくがフィールドワークの案内役を務めたので、いろいろ江戸時代の大坂のことを調べていて、昆布屋さんのHPで「大阪の問屋街」という項目に行き当たり、立売堀の由来を知ってとても面白いと思った。それで、市民塾2のふりかえりのときにその話をしたのだが、あとで考えてみると、言い足りないところがあったので、ここに書いておくことにする。


時代は、大坂冬の陣・夏の陣まで遡る。


『摂津名所図会大成』に、「慶元戦争(大坂冬の陣・夏の陣)の時、伊達家の陣所の地にして、要害の堀切なりし跡を穿足して川とせし故に、始は伊達堀とよべり。後に字音のままに伊達ぼりと言ひしを、俗に訛りていたちぼりと言ひならわせり。其後にはじめて材木の立売を御免なりし故に、立売堀とあらためしとぞ」とあるらしい。


伊達家が陣所を設けた要害の堀を最初は「伊達堀(だてぼり)」と呼んでいたのだが、その後人々が伊達(だて)を「いだち」と読むようになる。次に「いだち」が「いたち」になり、後に同地で材木の立ち売りが許可されるようになると、「立売堀」と書いてそのまま「いたちぼり」と読むようになったらしい。ふりかえりのときには、「材木の立ち売り」の部分を話し忘れたので、「伊達堀」が「立売堀」と書かれるようになった経緯がわからなかったはずだ。