大川端だより(221)

お盆休みは、天満界隈の史跡を自転車で巡る。西町奉行所、東町奉行所跡は、それぞれマイドームおおさか前と合同庁舎1号館のところにあるが、本当に可哀想なぐらい貧相な碑である。また、大塩の乱で焼けたというエンジュの木が立っていたところは、造幣局の北門の近く。残念ながら、大塩平八郎が自宅でやっていたという洗心洞跡の碑は見つからなかった。造幣局の北門の内側にあるのかもしれない。


今日は敗戦記念碑日だったので、お参りを兼ねて母方の叔母たちの家へテープレコーダーを持って、戦時中の話を聞きに行く。アメリカ軍の焼夷弾を避けて、ある防空壕へ飛び込もうとしたら満員で入れてもらえず、仕方なしに別の防空壕まで行って敵機が去るのを待った。後で話を聞いたら、最初に断られた防空壕は、敵弾が直撃して全員亡くなった、という話など、生々しい当時の話が聞けた。


もう一つ面白かったのは、戦後疎開していた京都府の園部で、度々うちの両親は俳句会をしていたらしいく、そのときぼくは3歳か4歳だったのだが、最初にぼくが作った俳句を下のほうの叔母が覚えていた。それは、「うえにハチ したにチョウチョも 飛んでいる」というもので、ものすごくうちの親父がそれを自慢していた、ということだった。ぼくはかすかにその句のことを覚えていて、そういうものを詠むと大人たちに気に入ってもらえるだろう…ということを意識していたようにも思う。