大川端だより(219)

しばらくブログ更新をサボっていたら、心配してくれる人もおられました。夏風邪が長引いていたのと、暑すぎて何もやる気が起こらなかっただけですので、ご心配なく。日曜日に、フィールドワーク市民塾チームの3人で、繁昌亭や天三おかげ館などと歴史スポットの歩く順番などを確認。以下のようなスポットを順番に歩きます。場所場所で説明を加えたりすると、1時間半から2時間はかかりそう。でも、距離的に大正ツアーの半分ぐらいの感じです。多くのご参加をお待ちしています。お申込みは、下記URLよりお願いします。http://www.osakavol.org/events/070901shiminjuku2.html


■フィールドワーク:「天満歴史スポットほか探索」

●スタート:大阪ボランティア協会北区同心事務所

●天三おかげ館

(1)大塩平八郎墓所
大坂東町奉行所の元与力・大塩平八郎は、明治維新の30年ほど前、飢饉の最中に、幕府の役人と大坂の豪商の癒着・不正を断罪し、摂河泉播地域の窮民救済を求め、幕政の刷新を期して決起した。

(2)山片蟠桃墓所
山片蟠桃(やまがたばんとう:1748〜1821)は、江戸中・後期の大坂の町人学者。宝暦10年(1760)に升屋(ますや)別家の伯父・久兵衛の養子となり、升屋本家に奉公。本家では蟠桃懐徳堂に通わせた。後に升屋本家の支配番頭になる。主著『夢ノ代(ゆめのしろ)』で、実証的で合理的な思考に基づく独自の思想を展開。徹底して無鬼論で有名。日本文化の国際的な理解を深めた著作とその著者を顕彰する「山片蟠桃賞」が設けられている。

(3)天満青物市場
天満青物市場は、堂島米市場・雑喉場魚市場とともに江戸時代の大阪の三大市場だった。何度か場所を変えながら承応2年(1653)に、現在の南天満公園付近に落ち着いた。大川に面する水運の便から、大阪三郷周辺各地から青果物がたくさん集められて賑わいを見せたが、昭和6年(1931)に中央卸売市場に吸収された。

(4)天満の子守歌歌碑(南天満公園内)
 ねんねころいち天満の市よだいこ揃えて〜、と歌われた「天満の子守歌」は、天満青物市場を歌ったもの。

(5)淀川三十石船舟唄歌碑(南天満公園内)
 天満青物市場の対岸、現在の土佐堀通り沿いに八軒家船着場があった。江戸時代、人びとは京都と大坂を結ぶ三十石船で物資を運んだり、行き来をした。

(6)天満組惣会所跡
 江戸時代の大坂は、大川以北の天満組と、それ以南の2組(北組・南組)に区分され、総祢して「大坂三郷」と呼ばれた。それぞれの組には惣会所(会議&事務所)が設けられ、町人による自治的機関として町の行政全般を司っていた。

(7)川端康成生誕の地
川端康成が大坂生まれだったと知らない人も多いが、彼は1899年6月14日、大阪市北区此花町(現在の天神橋付近)に生れた。1901年、父の死後、母の実家がある大阪府西成郡豊里村(現在の大阪市東淀川区)に移った。しかし、翌年には母も死に、祖父母と一緒に三島郡豊川村(現在の茨木市)に移った。川端は、小中学校を茨木で過ごした。

(8)西山宗因向栄庵跡
 連歌師の西山宗因(1605〜1682)は、50歳台になってから大坂天満宮連歌所の宗匠として向栄庵を結び、大阪を中心として活躍。門下には井原西鶴ら多数。芭蕉などにも影響を与えた。

(9)大阪ガラス発祥之地碑
播磨屋清兵衛が長崎でガラス製法を学んで 天満で「玉屋」という店を開き, 珍しい色のガラス玉細工を始めた。日本のガラス工業は実質的に大阪で始まった。安永〜文化年間(1772〜1818)には 大坂・天満は日本一のガラス生産を誇った。天満のガラスは 昭和の時代まで続き、戦後すぐの頃はまだ健在だった。

大阪天満宮

天満天神繁昌亭

(10)池上雪枝感化院跡
日本で最初の感化院(児童の自立支援施設)は、1883年6月27日に大阪の池上雪枝が、自宅(大阪市北区空心町二丁目四三番)に開設したものである。当時、大阪天満宮裏の歓楽街(繁昌亭がある辺り一帯)に不良少年(少女)が目立つようになり、雪枝は彼(女)らを自宅に引き取ったり、奉公先を探してたりしていたが、教育と授産に心を砕き、感化院の設立へと発展。

(11)緒方洪庵墓所
幕末の蘭医、緒形洪庵は備中足守藩の出だが、大坂「思々斎塾」で西洋医学の基礎を学び、長崎に出てオランダ人の医師、ニーマンの元で、医学・医術を学ぶ。その後、大坂に戻って蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開設。日本最初の病理学書『病学通論』や、コレラの治療方針・病理予防法の書『虎狼痢治準』等の著作がある。また、道修町に除痘館を設けて種痘事業の発展にも尽力した。東京・駒込の高林寺に墓がある。しかし、龍海寺にも遺髪が埋葬されている。