大川端だより(218)

大坂町奉行は東西2人いて、その下に、それぞれに与力が30名、同心が50名ずついたらしい。つまり、合計160人で、警察・裁判をはじめとする民政全般を担当していたことになる。大坂の町は北組・南組・天満組の3組に分かれ、各組に数人ずつの惣年寄(町人)がいて、自治的な運営をしていた。写真の石碑は、天満組の惣会所跡。滝川公園の中にある。


町式目(法律)によって、いろんなことが定められており、例えば、家屋敷を売買する際、証文には町の年寄・五人組の印が必要だった。「町」は奉行所に租税を上納する単位でもあり、町を運営する費用も結構かかったうようである。もし、町内の者が奉行所に呼び出された場合、必ず年寄(「町役人」といっても武士ではない)も付き添わなくてはならなかったという。たった160人の武士で民政を布くためには、有力町人の自治的な活動が必要だった。


フィールドワーク市民塾2では、大坂天満の史跡を巡り、大阪の市民自治と寄付文化について学びます。いろんな興味深い史跡をまわりますので、乞うご期待!!!