大川端だより(212)


昨日(7月20日)発行のメルマガ「市民ライター通信」に下記の記事を書きました。


     ◆ 自転車DEメールの若者に告ぐ! ◆      
                              

 最近、おもに若い連中だけど、自転車に乗りながらケータイ電話で話をして
いるのをよく見かける。自転車に乗っているときにケータイが鳴ったので慌て
て耳に当てる、というのはまだ理解できる。しかし、自転車に乗りながら相手
の電話番号を押したり、メールをしているのを見ると、まずその危機意識の欠
如と無鉄砲さにあきれるとともに、彼(彼女)らの機械操作技術には「感服仕
る」しかない。


 片手で自転車のハンドルを操作しつつ、前から来る歩行者の行動パターンに
ある程度注意を払い、もう一方の手であの難しい電子メールを打つのだから、
彼(彼女)らの頭脳は複雑にフル回転しているはずだ。運動能力、言語能力、
バランス能力、指先使用能力など、さまざまな能力を司る頭脳を若いときから
これだけ鍛えているのだから、彼(彼女)らが高齢に達したときには日本から
認知症なんてなくなっているかもしれない。


 自転車に乗りながらの携帯電話操作というシーンはかなり頻繁に目にするの
に、ほくが感心するのは、これまでまだ一度も、自転車と歩行者もしくは他の
自転車や自動車との衝突事故を目撃したことがないことである。このこと一つ
とっても、日本の若い世代の能力が一昔前のわれわれとは比較できないほど進
化していることが分かる。


 しかしそのことはさておき、彼(彼女)らが自転車に乗っているときまでも
したい行為とは何か?と考えてみると、それはまったく単純な話で、他者との
コミュニケーションだと分かる。ケータイ電話による会話も、電子メールも、
その目的は他者とのコミュニケーションである。しかし今、喧伝されているの
は、日本の若者の他者とのコミュニケーション不全ということではなかったの
か…。


 ここでおじさんは考えこむ。他者とのコミュニケーションというのは、自転
車のペダルを踏みながら完遂できるようなものではないのではないか、と。相
手と対峙して言葉を交すこと。また、万年筆などで文字を認め、封書にし、切
手を貼って、ポストに投函し、今か今かと返事を待つ。そういう緊張感と妄想
と期待感と、相手への血肉化(デジタル的ではない)した“愛”があってはじ
めてコミュニケーションは成立するものなのではないか……と。


 日本の自転車ケータイ世代の若者に告ぐ。


 自転車に乗っているときにケータイが鳴ったら、まず自転車を停めてきちん
と相手の言葉に耳を傾けよう。また、自分の気持ちを本当に相手に伝えたいの
なら、自転車走行中にケータイでメールするのではなく、相手にじかに会って、
目を見ながら話をしよう。そして、愛の告白を直接する勇気がないなら、せめ
て直筆の恋文を書こう。君の下手な手書き文字でさえも、ケータイのフォント
によるコクリ・メールより、効果抜群であることをおじさんが保障してあげる
からさ。