大川端だより(155)


開高健の『日本三文オペラ』の中に次のような件がある。


「敗戦の年には約七万の人間がはたらいていた。数回の爆撃によって破壊されたが、そのさいごの決定的破壊は昭和二十年八月十四日、終戦宣言発布の一日前、しかも白昼、すさまじい攻撃によって全滅した。公開された多くの記録によればポツダム宣言受諾はすでに一週間以前に決定されていたのだから、この三十五万坪の巨大な廃墟は軍閥政治家や天皇の、面子意識と優柔不断そのものをさらけだしているといえよう。七万人の労働部隊のうち、何人が助かったのかわからない。しかし、八月十四日の夕方に帰るべき人間が帰らなかった家は、大阪市内とその近郊に無数にあったはずだということは想像に苦しくない。無数の父と夫と兄と娘は狂気の馬鹿の虚栄心のためにまったくむだに四散した。」


開高健のこの怒りを忘れたかのように今、元の焼け跡には高層ビルが建ち並び、四季の花が咲き、若者たちが健やかな青春を謳歌している。