大川端だより(108)

早朝にメルマガ「市民プロデューサー通信」第129号を発行。下記のような記事を書きました。メルマが講読(無料)のお申込みは、(http://www.mag2.com/m/0000059597.html)よりお願いいたします。

┏┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃┃「60年代の祝祭的トポスを想い起こすために…」・・・(18)
┗┻━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 「コミューン的なスタイルについて」

▼60年代後半の映画といえば、なんといっても「イージー・ライダー」だろう。
ピーター・フォンダデニス・ホッパー扮する二人のヒッピーが、バイクでア
メリカを旅する物語である。この映画の中で当時アメリカのあちらこちらにあ
った若者たちのコミューンが出てくる。


▼コミューンとはもともと、「11世紀末から13世紀初めにかけて西・南ヨーロ
ッパで発展した都市の自治的共同体(ブリタニカ国際百科事典)」のことだっ
たが、パリ・コミューンなどの革命的コミューンの歴史を経て60年代後半には
主に若者たちが自然の中などでつくる小さな自治共同体のことを意味するよう
になっていた。


▼日本にも昔からコミューンはあって、有名なのは武者小路実篤らの農業協同
集落「新しき村」や山岸会だが、諏訪瀬島にも和製ヒッピーのコミューンがあ
った。ぼくは一時期とてもコミューン的な生活に憧れていた。ヘンリー・ソロ
ー著の「森の生活」のように一人で暮らすのではなく、仲間と一緒に、米国の
人類学者ヴィクター・ターナーの言う“コムニタス”な場を求めていたのだ。


コムニタスとは、イニシエーション(通過儀礼)の中での人間関係のあり方
を意味し、身分や地位、財産の有る無し、性別や上下関係の次元、つまり社会
構造(体制)の次元を超えた、もしくは“棄てた”「反構造」の次元における、
自由で平等な人間の関係性のあり方、と考えてよいだろう。


▼また、英語の「commune(コミューン)」は、動詞になると「親しく語り合う
心を通わせる、共感する」といった意味があり、大都会や大組織にはない、小
地域や小グループにおける人間関係の温かさのイメージがある。「communalist
(コミューンナリスト)」と人を表わす名詞になれば「パリ・コミューン参加
者」や「地方自治主義者」のことを意味する。


▼今、これらコミューン的な志向、スタイルが以前より重要になって来ている
と思うのは、あまりにもグローバル資本主義が力を持っているからである。人
々の暮らす地域を越えて、巨大で整備され、組織化された生産・流通・消費の
システムが地球を覆いつくしている現在、そこに風穴を開けることができるの
はコミューンナルな感覚、思考、行動様式ではないかと思っている。


▼そういう意味では、ぼくらのやっていた南大阪ベ平連は、ものすごくコムニ
タス&コミューンナルなトポスであり、運動だった。そして現在の、NPO
市民活動のスタイル(小グループ、ワークショップ等々)もとてもコムニタス
コミューンナルであり、このスタイルを拡充していくことが、グローバル・キ
ャピタリズムに対する大きな対抗勢力(カウンター・カルチャー)になるので
はないかと思うのだが、甘いかしら…。(thayama)