大川端だより(98)

「差別語」について

 「そんなん片手落ちやで」などと口走ろうものなら、すぐさま誰かから、「あ、差別語を使った!」と一喝される、という嫌な世の中になった。

 「片手落ち」という言葉は元来なにも隻手・隻腕を意味するものではなく、「片方に対する配慮が欠けていること」、つまり不公平な事や状態を表わす言葉である。「片手・落ち」ではなく、「片・手落ち」で、「手落ち」とは「方法や手続きに不十分な点があること。また、その不十分な点(スーパー大辞林)」という意味である。

 では、「手落ち」の「手」がhand(手)やarm(腕)の意味なら、それこそ差別的ではないのか…。いや、そうではなく、日本語の「手」は多義で、「手落ち」の「手」は、手間・手数・能力・腕前などの意味である。つまり、片方だけ手数がかかっていないから、不公平で配慮に欠けている、という意味になるのだ。

 「本来の意味はそうかもしれないけど、世の中には片腕の方もいらっしゃるのだから、その人たちが気分を害するようなことは言わないほうがいいと思う」と言う人がいる。そのくせ平気で自分の夫のことを「うちの主人」などと呼ぶ。対等であるべき夫婦間で、主従関係を表わす「主人」という言葉で自分の夫をの呼ぶことが差別的だとは思わないのだろうか。

 思わないのである。なぜなら、自分と夫の間に主従関係があるとは思っていないからだ。つまり、差別語の問題は、被差別者がものすごく不快になる場合だけではないのか。例えば、目の不自由な人が誤ってぶつかってきたことに対して、「このめくら!」などと罵倒するとき、この場合の「めくら」は完全に差別語であろう。

 「盲(めくら)」という言葉は、もともと目が見えない人や状態を客観的に表わすもので、差別的な意味合いはなかったと思うのだが、それを使う人間の側に徐々に盲人に対する差別意識が蓄積していったのだろう。「ちんば」や「つんぼ」も同じことである。

 言葉に責任はない。言葉に差別意識を盛り込んでいくのは人間なのである。